映画「バルトの楽園」   

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ベートーベンの「第九交響曲」が日本で最初に演奏されたと言う坂東俘虜集収容所と、その収容所を舞台にドイツ人俘虜と、所長を中心とする地元民との、人間的なふれあいの実話をもとに描いた映画である。
一九一四年、第一次大戦で日本軍は、三万の兵を送り込み、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略し、ドイツ兵四七〇〇人が日本各地の俘虜収容所に送り込まれた。厳しい待遇が当然であった当時の収容所の中で、徳島県の坂東俘虜収容所は奇跡のような他には例を見ない収容所であった。それは、所長である松江豊寿(まつえとよひさ)が、ドイツ人俘虜に対し、ハーグ条約に則り人権を尊重する待遇を終始厳守していたからである。ドイツ人俘虜達は、言語、習慣、文化の違う地域住民や、収容所職員と敵味方を超えた人間的なふれあいを育んでいった。
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そして、休戦条約が調印されドイツ帝国は崩壊し、俘虜たちは祖国へ送還されることになり、彼らは所長や地元住民などに感謝を込め、ベートーベンの第九交響曲を演奏するのである。
戦時中に、日本にもこのような美談があったことが、信じられない思いであるが、この事実を描いた中村彰彦著「二つの山河」には、戦歴を書かなかった軍人としての松江の人となりを詳しく述べている。旧会津藩士を父に持ち、一度は大尉まで昇進するが、その後、左遷されるなど、何故か日の当たるコースを歩んではいないようである。会津人の流浪と屈辱の歴史の経験と彼に流れる血が、陸軍の堕落した実態に追随する人間ではなかったであろうし、収容所においても、俘虜への寛容な処遇と運営は、軍上層部に反抗的であった。
c0072993_2322423.jpg松江のこのヒューマニズムあふれる人間性は、会津人としての経歴が大きく関わっており、極めて重要な要素であると思うのだが、映画では、この部分がさらりとしていて、私には物足りなく感じた。
また、当時ドイツは世界でもトップクラスの文明を持つ国であり、松江は、俘虜達から地元民へ、その科学技術の知識や経験を積極的に取り入れ、現在の日本にも多く伝承されているという功績も大きい。中でも大正七年に十二日間にわたり開催した「俘虜作品展示会は、俘虜たちのドイツ文化の優秀さを世間に知らしめた。物理、化学、天文学などの講演や、美術部門、工芸部門、ハム、ソーセージなど、お菓子部門など多彩であり、人口わずか五百の村に五万一千人以上の入場総数であったというから驚きである。




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祖国に帰る日が近い大正七年六月六日、ハイゼン指揮、徳島オーケストラ第二回シンフォニーコンサートが開催され、ベートーベンの「第九交響曲」が合唱つきで第四楽章まで演奏されたのである。これが第九の本邦初演である。
合唱は男声のみであり、楽器も満足に揃わない中での演奏であったであろうが、祖国の誇るベートーベンがシラーの詩を用いて世界に伝えたかった偉大なシンフォニーは、坂東の地にこそふさわしい音楽であった。
「世界は一つ、人類はみな兄弟である」
望郷の念が募り、高らかにうたいあげる俘虜たちの思いは、松江所長の国境を越えた尊い友愛の精神への感謝の合唱でもあった。
 映画の中のこの最後の演奏は、立派に完成されすぎて、感動が伝わらないのが残念であった。カラヤンの指揮する曲が再び流れるのだからここは当時の素朴さが欲しいと思った。
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出目昌伸監督は、「戦争やテロが相次ぐ時代に、この映画を通して鳴門から世界に平和を発信したい」と語っておられた。

私は、市民による「第九合唱団」を組織し、その運営と演奏会の成功に青春を過ごした。「苦悩から歓喜に」至る思いが蘇り、この映画には、個人的期待が特別強かったかも知れない 。

by taizann | 2006-06-30 23:30 | エッセー

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