<   2005年 03月 ( 6 )   > この月の画像一覧   

 我流「ちりめん山椒」    

 今年も、あの真っ青で風味豊かな山椒の実が店先に出回ってきた。
山椒は、子供にはちょっと毛嫌いされるが、大人にはたまらない、食欲をそそる高尚な香辛料だと思う。

 私はその新鮮な山椒の実とちりめんじゃことを醤油とお酒で炊いた「ちりめん山椒」を作りご近所、友人に配ることを趣味にしている。

 全くの手前味噌であるが、とても喜んで貰っていると思っている。何故ならお得意様(?)が、増える一方で、「お店を開いたら・・」と言ってくれる人もいる。
 
本当に我流で、ただ、ちりめんじゃこと山椒の実を、お醤油(減塩)とお酒を同量、材料の半量くらい入れ、弱火で水気がなくなるまで炊くだけのものである。

 最近は、みりんを少々加えた方が「ツヤ」が出て見ばえががいいのでそうすることにしている。
うまくできるかどうかは、じゃこの方にかかっている。よく乾燥して、こぶりのものの方が失敗がない。そして焦げそうで、水気がなくなる手前で火を止めるのがコツである。

 
 これを教えてくれた人は、もう少し手間がかかって丁寧な作り方を伝授してくれたが、なにせ手抜き大好き、面倒くさいこと大嫌いのこの性格で、「我流ちりめん山椒」を作って、押し売りみたいにあちこちに配って喜んでいる。

 この季節になると、山椒の炊いた匂いが家中に立ちこめ、子供は帰宅して「また、炊いてるの?」「臭いわあ」と嫌がる。
今日も「お友達の○○ちゃんの所に持って行ってきて」というと「うん」と持って行って「おばちゃんが、ちりめん山椒が届く頃やなあって話してたらしいよ」と帰ってきた。
 これをあげると、ある家からは山吹の佃煮が、ある友達からは、新生姜の炊いたのが届けられ、我が家は季節感が漂い、白いご飯がよくうれるのである。

 ここ数年は、山椒の大きい木がある城陽の農家に、青いゴミ袋持参で山椒の実を貰いに行っている。ハシゴをかけて取らなくてはならないし、長袖と日よけの万全な、いでたちで行っても、山椒のトゲで、傷だらけになり、お風呂に入るときには結構しみる。
 きれいに実だけにして冷凍にすれば一年中持つので、軸(?)や枝を取って実だけにするのも時間がいり大変な作業なのである。

 
 しかし、「うれしい、お弁当の白いご飯の上にのせて毎日持っていく」とか言われると本気にして、冷凍の実を出してきて年中炊いている。
やはり、冷凍の実は、取りたての実の香りの様には風味が出ないし、ジーンとしたあの山椒独特の痺れ感がもう一つものたりない。
 
山椒の実を、家でなんとか収穫できないものかと、美山の奥に住む友人が、鮎とりに誘ってくれた時に、小さい山椒の木を頂いて家の裏の畑の端に植えたのだが、数年経つのに一向に大きくならない。実の方も収穫には程遠い。
 山椒の花の佃煮もこれはとても、花山椒として高級な珍味で値段も高い。もっとほしいと思うくらいしか入っていないが。花を家でとって佃煮にできたら最高であるが、花をとれば実はできないことになるし、高い訳が理解できる。

 
 山椒はミカン科サンショウ属に入り、原産国が日本というのは知らなかった。
中国では花椒(ホアジャオ)と言い、実だけを使うそうである。
香辛料で日本が原産というのは珍しいように思う。
中国から渡ってきたものとばかり思っていた。
 
懐石料理などに木の芽が一寸あしらってあるだけで、食欲がそそられる。花も実も若葉も使うというのは日本だけの様である。
 
私は、味の薄いちりめん山椒は美味しくないと薄味にはしない。主人はちりめん山椒をあまり食べない。多分、高血圧予防のため控えているのであろう。
 しかし、この時期になると主人のほうが、仕事の帰りにスーパーへ寄り、「安かったし、このじゃこならちりめん山椒に良いやろう」と時々買ってくる。

 さあて、折角だから、今年もまた、押し売り先を開拓するとしようか。  (2004・6)
c0072993_17523552.jpg

by taizann | 2005-03-22 19:39 | エッセー

引揚者の思いと共に  旅行記 NO2   

翌朝、ホテルの我々の部屋の入り口にメモが差し込まれていた。「街を散策してきますので、食事はお先にどうぞ」と書かれていた。
遅い朝食のバイキング会場で散策に行っていた2人に会った。「あった、あったんよ」と嬉しそうであった。

2人は早起きして、自分たちが暮らしていた場所を探しに行ったのであった。
果たせるかな、旧満鉄社宅は残っていたらしい。
何棟かのうち2棟が残っていたらしい。取り壊しの対象になるほどの建物になってはいたが、人も住んでいたと言う。確かにたどり着いたのである。

彼女たちはしっかり昔の場所を調べていたのであった。しかも、松風台とは、ガイドさんの卒業した大連外国語大学のふもとであったと言う。その社宅の傍の一角で、学生がたくさん朝食を食べていたらしい。見るからに学生向きの安そうな店が多かったらしい。

ガイドさんが知らないはずはない、

だから反応が鈍かったのだ。我々5人はすべてを察知した。どうもこの旅行社は大連の表しか見せていない、貧富の差はまだまだ残っていると言いながら貧の部分は見せない、どちらかと言うと富の面ばかり目に入る。偏見を取り払ったとしても、北京や西安に見た中国らしい庶民の生活の匂いがしない。
“まだまだ、中国では大学卒はエリートであろう、ガイドさんもプライドが高そうだ、大連の街に誇りを持っている、恥となるような大連は特に日本人には見せたくないのかもしれない”と我々一向はそれですべてを納得することにしたのであった。


2日目は203高地への予定であった。
交通渋滞に遭遇した、日本の共通一次試験みたいな日であったらしく、大学の近くではクラクションを鳴らすのも禁止だそうだ。

渋滞の車の中では、ガイドさんの流暢な日本語で「学生時代、天安門事件のきっかけになったデモに自分も参加した」話や、「文化大革命で紅衛兵に父親が糾弾された」話など興味深い話をたくさん聞いた。

さすがに、日本語を選考しただけに、日本の風土、しきたり、現在の日本の情勢にもなかなか詳しい。よく勉強していると感心した。

「東條英機を祀る靖国神社に一国の首相が参拝することを日本人はどうして許しているのか」と言われた。前の方に座っていた友人が「別に許しているわけではないが、憲法違反を平気でやる男だ」と言ってのけた。私も同感、そう答えたであろう。

203高地ははるか昔の明治の戦争の跡を記念に観光地にしているのであるが、観光客は結構日本の若い人が多く私には意外であった。

その後、星海公園、老虎灘公園など市民の憩いの場となっているところを案内してもらい、その日の夕食は海鮮料理で乾杯した。
ガイドさんは「よく食べてくれて嬉しい」と感心している。お年寄りの方たちのツアーが多く、戦友会の方たちであろう、食べ物が残るらしい。その点我々の5人はよく食べる。中華と言ってもあっさりしていて本当に美味しかった。

その夜はみんなで夜の街に繰り出した。ホテルが大連駅の近くで繁華街にはすぐであった。アカシアの花を模った街灯が可愛いし、夜は夜でまた美しい。
友好広場には、巨大な水晶球のモニュメントが、赤、緑、黄色とライトアップされている。めでたい、平和と希望、豊かさを象徴しているらしい。大連市の標語であり、主張であろう。夜の公園には若者が溢れていた。

三日目、午前中はフリータイムであり、私はお土産を物色して歩いた。例の2人は懐かしい思い出の街へもう一度足を運んだらしい。
そんな2人の気持ちがとてもよくわかった。またいつ来れるかわからない、もう一度来たとしても今度はないかもしれない、そんな時代の流れを感じる。もう何年かしたら日本と大連の歴史は風化してしまうのだろう。

大連を離れるとき、Kさんは「母を連れてきたかった、何故、もっと早く来なかったのだろう」としみじみ語った。手には生前彼女に、お母さんがくれたものだと言う大連の思い出を書いた手紙を握っていた。
そして、「井上ひさしの大連“写真と地図で観る満州”」という本を貸してくれた。中をめくると、黄緑の蛍光ペンでたくさん塗りつぶされてあった。
何度も何度も読み返したのであろう。

5人は関空で「必ず写真交換会をしようね」と約束をし、「次もこのメンバーで、ハルピンに行ってみたいね」などと話しながらそれぞれの家路に着いた。


家に着くと偶然にもNHKの「その時歴史が動いた-203高地」を放映していた。
(そうそう、今年は旅順陥落100周年にあたると言っていた)「どうだった?」と主人は
お茶を入れてくれている。「うん、思っていたよりきれいな街で気に入った」と答えたが、
私は203高地の資料館の出口にあった中国語だけの声明文を思い出していた。

読めないが「日本軍、残虐、屈辱、決不忘、平和」の文字が目に焼きついているからだ。この旅行の中で、中国の人々の言いたいことに始めて触れたように感じた。


今回の体験をエッセーにするのは私には憚れる。おこがましい。だいそれている。 
そんな思いが次第に強くなってくるのであった。

1946年(昭和21年)5月以降、満州から100万人を越える人たちが故国の土を踏んだという。
                                            c0072993_11535432.jpg(2004、7, 7)

by taizann | 2005-03-16 11:54 | エッセー

引揚者の思いと共に  旅行記 NO1   

6月のはじめ、友人が中国の大連に行くのに急きょ仲間入りさせてもらった。

考えてみたら主人と別に外国に行くのは全く初めてのことであり、わずか2泊3日の旅と言えども、今まですべてまかせて、体一つでついて行っていたことに、まず気が付き面食らった。
旅行社への手続きから旅行用品のつめこみまでであった。と言うとまるで、私が何も出来ないみたいだがそうではない。自分でしないと気がすまないという主人の性格が、私が手出ししない方が穏便にすむから、そうさせてしまったのである。でもきっちりと大蔵大臣だけは仰せつかっている。

今回のガイドブックも、すぐ見つけてきてくれた。ガイドブックにまず目を通し「アカシアがちょうど咲いている頃みたいや」「日本の東北にあたる緯度だから、過ごしやすい」、「海が近いから魚介類がおいしいよ」「しかし、あまり観るところはないなあ」などと言う。

主人はいつもこうである。まるでツアーコンダクターのようにその土地の地図を頭に入れて行く。だから、主人との旅行はフリーを好むため、私は振り回されペースが乱れ、とことん疲れはててしまうので、常々のんびりと旅行したいと思っていたのであった。

確かにたいした観光地もなさそうであり、目玉はやはり、日本人が戦前たくさん住んでいた、統治していた街ということであろう。それが私の観たい、一番知りたい目的なのである。

今回の5人のなかの3人は引揚者であり、2人は大連から引き揚げたのであり、もう1人はハルピンからだと聞いている。
そんな友人と大連に行けるなんて、エッセーのネタにはうってつけの好機ではないかと
一人心に秘めて友人からの誘いにのったのである。

全員、同じ職場のリタイア組であり、みんな退職以降交流があったわけではないが、関西空港に集合して顔をあわせたら、急に懐かしく嬉しくなってしまった。何かこの旅行が楽しいものになりそうな予感がした。

私以外は看護師さんであり、しかも、ベテラン揃い、外国に行くと、足をくじいたり、お腹を壊したりとトラブルの多い私は大船に乗ったようである。

関空からわずか1時間半の搭乗で、時差も1時間、国内旅行みたいなものである。
アカシアの花はすでに散ってしまい、アカシア祭りも終っていたが、緑豊かで、公園が多く、洋風の建物が立派で、想像以上の大都会であった。

中国の北方の香港と書いてあったが香港のように雑然としていない。宣伝の看板などにも節度があってケバケバしたところがまったくない。人口は500万人を越えているらしいが、広さが東京の面積の5倍もあるから、人口密度は比較にならない。

街はしっとりと落ち着いて、あちらこちらの木陰で老人が将棋をしたり、マージャンをしたりしているのには余裕さえ感じられた。街の中心部は日本人が作ったという建物が並び、1905年から1945年までの40年間統治していた当時の日本の覇権の名残りを堂々と留めている。

「右の奥の古い建物が旧満州鉄道病院です」というガイドさんの説明に「あっ、母が骨折してリヤカーに乗せてこの病院に来た覚えがある」とMさんが一番に反応した。
彼女は7歳のとき大連から引き揚げたのであった。そんな2人は、中山広場(チュウザン)の中央の丸い階段や、「この坂道の奥に神社があったはず」と7歳の記憶が次第に蘇えってきたようであった。

それでも2人は、初日の市内観光におとなしく付き合っていた。高度の下がった飛行機の窓から食い入るように大連の街を見ていた2人である、遠慮しているのか、昔を思い出して懐かしんでいるのか、私のほうが焦る気持ちだ。

早く昔住んでいたところに行きたいだろうに、明日は203高地と旅順に行く予定だ。
「ねえ、2人は何て言う所に住んでいたの?」と私は聞いてみた。
Mさんは「日の出町」に、もう一人のKさんは「松風台」に住んでいたという。
ガイドさんは「夜、家に帰って旧地図で調べてきますね」と知らなさそうで、もう残っていないだろうと言わんばかりの態度である。


大連港に着くと2人は「ここや」「この桟橋は昔のままや」と感慨もひとしおみたいである。
着の身着のまま引き揚げたという、しかも、引き揚げが決まってからも船に乗り込むまで何日も何日も待ったらしく、家族揃って帰るのが必死だったと。一つ間違えれば残留孤児になっていたとも2人は言った。

引き揚げ船は、水の落ちる船底で過ごし、やっとの思いで日本に帰り、佐世保港について、しらみの駆除のためDDTを真っ白に浴びせられ、始めて陸に上がったと話してくれた。
Mさんは、父親に「何故満州に?」と聞いてみたことがあるそうだ。「軍隊に行きたくなかった」と、その一言だけ覚えていると話してくれた。
このMさんのお父さんの話は、多くの日本人が、満州へ渡った思いと違う一面を知り私には驚きであった。

私は引揚者の体験を直接聞いたのは初めてであり、引揚者の苦労話は正直言って今までやはりどことなく人事であった。

夕食までたっぷり時間はあるのだからちょっと、車で日の出町と松風台の近くまで連れてくれればいいのにと思いながらホテルで時間を費やした。
一同は、その夜の中華料理に舌つつみをうち早い眠りに着いた。

c0072993_11414471.jpg

by taizann | 2005-03-16 11:32 | エッセー

ブルキチ 自慢話 その2    

さて、みんなで「名前は?」「バロニー2世号」と簡単に決まった。通称「バロニー」である。

ブルドック(ブル)はとても人なつこい性格である。ある時、近所の奥さんが庭先で草取りをしていた、バロニーは嬉しそうにすぐ擦り寄っていく、その奥さんは気づいて「ヒエーッ!!」腰を抜かさんばかりにびっくりして転げてしまった。

無理も無いこの風貌である、誰でも驚くよ。(しかし、何もそんなにオーバーな驚き方をしなくてもいいじゃないの、なあ、バロニー!)と私は彼を慰めてやる。

それ以来、私は散歩の時にはとても気を使う、特に子供やお年寄りには用心しないと突然走り出し、足元にスリスリし、舐めてしまう。本人は軽い挨拶のつもりであるが、子供などは泣き出したり、怯えたりされると「すみません、すみません」と謝らなくてはいけないことになるからである。

最近ようやく、物をかじる行為が無くなったが玄関の鴨居は見る影も無くかじってしまい、靴、スリッパのたぐいは次々とズタズタにかじられた。

主人の買ったばかりの高い靴をかじった時には、さすがに私は、靴を見せて本気で叱った。「そんなに怒ってやるな」「悪いことをしたら怒らなきゃ」「いいから、それ以上言うな、近くにおいて置く方が悪いのだから・・」である。
私は「まともな靴が1つも無くなってしまったじゃないの、ブツブツ」である

ブルは牛の放牧用として改良され、噛み付いたら離さないという本能を持っている位なのである。私の友人は新しいブーツを履いて遊びに来てやられた。
それからは来る時はいつも前もって電話してくる。
「今から行くけど、あの“ばかブル”小屋に入れておいてよ」と、すると、彼女が来ると必ず吠える、郵便配達の方、宅急便の方、誰が来ても吠えず、ブルは番犬には向かないと決めつけていたが、そうではないらしい。よーくわかっているのである。

ブルは、肩が胴の幅より張り出して、ウエストが細いのが良い体型とされる。その点ではうちのバロニーは、モデルになれる。首は太く、鼻は低く、口のたるみは分厚く、口の回りのシワは深い方がよいといわれる。
鼻が低く気道が短いせいでいびきはすごい。それも、我が家にとっては、心地よい響きで、このいびきが聞こえると今日も健やかなりき、と安心する。

しかし、暑さ、寒さに極めて弱く、夏の散歩は一大決心であり、“雪やコンコン,犬は喜び庭駆け回る”なんて光景はブルには程遠く、雪が降ろうものなら小屋に入って震えているのである。

もう立派な家族の一員で、バロニーにとって息子はご主人様として一目置いており、娘は一番の友達である。結構自分中心で家族を動かしているところもあるのである。

主人は、よくお酒を飲んで帰ってくる、するとバロニーの縄張りの範囲の玄関先の廊下で寝てしまう、主人のお腹にあごを乗せ、2人とも、仲良くいびきの合唱である。
「風邪を引くから、2階に上がって寝たほうがいいよ」と主人を促そうものなら怒って吠え、腕を噛み付きに来る始末である。

そんなバロニーも5歳といえばもう男盛りである(むしろ、もう男盛りは過ぎているかもしれない)。お嫁さんを探してやらなくてはいけない。「バロニーのホームページを作ろうと思う、いいお嫁さんが見付かるかもしれないし、インターネットで売り出すよ」と言ったら、主人は「止めてくれ、ブルドック狂は多いから、バロニ―ほどのブルは、目をつけられたらこっそり、手なづけて連れて行かれるかもしれない」と、言う。

「???」ここまでになると、親子2代続くブルキチであると思う。親バカとは言えないからブルドック狂、すなわち「ブルキチ」とは私が作った造語である。

ブルドックの名前の語源は、イギリスで始まったブル・ベイティング、すなわち、雄牛にイヌを噛み付かせる残酷な闘技で13世紀から17世紀まで、庶民の間で白熱し、スポーツとして流行したもので、それにこのイヌが用いられたことに由来しているらしい。

そんな獰猛な面影は今のブル達には、まったく見られません。

もしも、散歩しているブルに出会ったら、ローリング・ゲイトと名づけられた歩き方を見てやってください。シッポが無くて、お尻を左右に振って歩くその格好は、モンロー・ウオークより魅力的ですから。                     (H16・5.29)                                                                                                                                           参考:誠文堂新光社愛「犬の友シリーズ」
成美堂出版「ブルドック・マニア」

by taizann | 2005-03-12 20:22 | エッセー

ブルキチ 自慢話 その1    

我が家には、もうすぐ5歳(オス)になるブルドックがいる。名前は「バロニー2世号」という。2世号というのは、先代1世号が存在していたからである。1世と2世は血が繋がっているわけではない。

主人のお父さんが、いわゆるブルドック狂であった。義父の残した写真には必ずと言ってもいいほど、いつもブルドックが一緒に写っている。

主人の実家には、大きなブルドックが玄関にいつもデーンとかまえていた。それが「バロニー1世号」であった。それはそれは素人の私にもわかるほど、風格もあり、存在感のある立派なブルドックであり、義父の自慢であった。

これをいくらお金を出して手に入れたものか、義父が他界した今では謎である。バロニー1世は、フィラリア症にかかりあっさりと死んでしまった。

当時主人の実家には「シロ」という真っ黒な雑種もいた。これがまた、賢い犬で、主人が働いていた職場の近くに捨てられていた犬だったようで、主人になつき、家まで付いて来てしまったそうである。しかし、2匹も飼えないと車で、山の奥の方に捨てに行ったらしい。

ところが、1週間後、「シロ」は、痩せこけて、ボロボロになって戻ってきたそうである。この「シロ」は正月用に、タライに漬けていた1匹まるまるの棒だらを食べてしまったことがあるらしく、2~3日エサを口にしなかったとよく義母が話してくれ、「シロ」というとこの話を思い出す。

私は元来猫派だったのであるが、主人の実家の、この2匹イヌのせいですっかり犬派になっていた。子供たちもそんな実家に、共働きの都合で度々預けられて大きくなった。

我が家の子供2人は小さい時から、犬を飼ってほしいと言い続けていた。子供が大きくなって「自分たちで面倒見るから、お金も出すからお願いします」と嘆願され、本当に責任もって面倒見るのだったらと意見がまとまった。
実家の「バロニー」も死んで、「シロ」も死んでしまった。その時の主人の落胆振りを知っている私は、主人に異論がある筈はないと、積極的にこの話にのった。「どんな犬にする?」何のことは無い、全員が「ブルドックがいい!」である。

とは言っても、ブルドックはペットショップでも、なかなかお目にかかれない。根強い人気が
あるらしく、生まれるとすぐ、貰い手が決まり、店頭にもなかなか出てこない。我が家も予約しておいた。しばらくして、お店から、写真を見てくださいと連絡があり、みんなで見に行って一目ぼれである。おまけに、血統書付である。

英国のオコボ系の血を引く全日本のチャンピオン犬の7匹兄弟らしい。オコボ系というのは専門書によれば、キングロック・オコボ(イギリスの高名種雌犬メリービンソン・オブ・サタンの固定血統を持つ)のことで、現在関西法方面で受け継がれているようである。

ブルドックは英国の国犬であり、イギリス海軍のシンボル犬であった。何においても、ブランドに拘らない私はそんなことどうでもよいが、義父が生きていたらどんなに喜んだことだろうと思った。
c0072993_1646255.jpgダンポール箱に毛布を敷いて迎えにいった。車の中で、可愛そうにずっと震えていた。わずか、生まれて数ヶ月で、親と離れて、知らない家に貰われるのである。私は「必ず可愛がるからね」と、この小さいブルドックを家まで抱きしめていた。

by taizann | 2005-03-12 16:46 | エッセー

天国に行った徳さんへ   

                                 
 徳さん、お久しぶりです、どうしていますか?退屈していませんか?
貴女のことだから、きっとそちらでもたくさん友達作って賑やかにふるまっているのでしょうね。私は、たまに貴女のことを思い出すけど、私のこと覚えている?

そう、もう12年も前になりますね。私が肺の手術をして、続いて貴女まで同じ手術をする事になるなんて。同じ検査技師がねえ。

貴女は血液検査のプロだったけど、私はずっと細菌検査をしていたから、しかもツベルクリンが強陽性だったし、ちょうどその頃、貴女は知っていると思うけど結核菌検査は時間がかかるでしょう、それを早く結果を出すように、いろいろ研究していてね、多分仕事上の感染と決め付けて、自分の病院には 結核病棟がないから、貴女の病院に行ったんです。
でも、タバコも吸っていたし、気管支鏡の検査でも、細胞が取れず手術になったという訳です。

手術後仕事が終って、毎日見舞いに来ていた主人と病院のロビーで話しているとき、いつも我々を見ている人がいてね、「あの人たぶんここの病院の検査室の人だけど・・用事があるのかなあ」と思っていたんです。声をかけてくれたらよかったのに。

その後、そちらに勤めている、ほらあの貴女の同僚のYさんからね「徳さんが貴女の手術の後の傷を見せてほしいって言っていると聞かされたのでした。傷を見せたら「きれいな傷やった」と言って貴女も手術に承諾したらしいね。

それが私は「結核」で、タバコを吸わない貴女が肺がんと言われ、しかも、ちょっと予後不良の「小細胞癌」と聞いたときには運命のイタズラを嘆きました。まあ、私の場合、職業上の感染なんて格好悪いし、いただけないけどね。

そのときから私たち仲良くなったんだよね。
結核は、今はいい薬があるから二週間ほどでみんな退院して行く時代だからね。風邪みたいなものってみんな言っていたよ。本当にそう、、  

4ヶ月休んで仕事に戻ったことは話したよね。しばらくは体の調子が戻らず本当に仕事を辞めようか何度も何度も考えたけど、貴女のことを考えたら贅沢言えなかったからね。
だから、貴女が一度は元気になって職場復帰したときは嬉しかったなあ。なんか、性格も男っぽくて、はっきりしていて、飲むのが好きでね、似たもの同士だったから、これからいろんなとこに旅行して、痛い目をしたぶん二人で取り戻さなくちゃあと思っていたのに。

咳がひどくて衰弱して、食事も受け付けないって聞いて貴女の好きなビールを持ってお見舞い
に行ったよね。覚えているかなあ、「美味しい」って言いながら、病室で2人で飲んだよね

それからも、どうも芳しくないと聞いて、あれが最後になってしまったけど、全国民宿マップという本を持って病室に行ったときは「元気になって温泉めぐりするよ」と言うと確かに貴女は頷いたよ。
それから数日後だった。
やっと楽になったんだと思ったけど寂しいものだよ。

お葬式に行ったとき、貴女がいつも気にかけていた娘さんがひどく泣いていたよ、お嫁に行くまで見届けたかったんでしょう?さすがに私にも娘がいるからね、娘さんのあの泣きじゃくっている姿を見たときは、結婚もそうだけど、娘のお産の時は傍についてやらなくてはと、つくづく思いましたよ。

私も最近仕事も辞めてね、ほら、貴女の同僚のMさんや、Sさん、Yさんも無事定年退職したから、たまに食事して、カラオケ行って夜中まで遊んでね、楽しんでいます。

必ず貴女の話が出るのよ、「徳さん退屈していないのかなあ、全然お呼びがかからないけど」とね。「あの人は何処へいっても楽しんでいると思う、きっと忙しくしてるんじゃないの?」なんてね、そうなの?じゃあ、もうしばらくは呼んだりしないでね、私ももう少し、したいことがあるから・・。 

元気でね、また手紙書くね  (2004、7、9)

by taizann | 2005-03-09 11:02 | エッセー