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前世との交信   

最近、主人がインターネットオークションに凝り、家の中に何やら今まで見たこともない置物や、楽器などが増えだした。まあ、遊び半分でオークションを楽しんでいるのであろう。
先日、「犬のしぐさや、鳴き声で犬の気持ちを分析するという機械があるけど買ってみようか」と言い出した。テレビでも紹介されているのを見たことがあったけど真剣に見ていたわけでもないし、それで動物の言葉がわかるなんて(まさか)位にしか思っていなかったので子供も一緒に「いらん、いらん」と、にべもなく断ったのであった。

ところが、数日後その機械が二個も送られてきたのである。入札のタイミングを間違えてしまったのだと言う。「いらん」と言ったのに「好きやなあ」とみんなで苦笑いである。
仕方なく、一個は、子供が職場の犬好きの先輩にあげることになった。

 “バウリンガル“といって簡単に言えば、犬の気持ちを翻訳し、人間とのコミュニケーションを図ろうとするものである。犬のボイス翻訳モード、しぐさ翻訳モード、その他にもいろいろなデーター分析モードがあるが、我が家は専らボイス翻訳モードしか使ったことがない。
首に送信マイクを取り付け、それから送られる鳴き声をリアルタイムに声紋分析をし、液晶画面に文字で表示する物である。
犯罪などで、犯人の声紋を分析しているのと同じ原理で結構科学的なデータによるらしい。
適応犬種も五十種以上で、年齢、性別などいろいろあらかじめ設定入力しておくのである。

 さて、我が家でもう中心的な存在になっているブルドックのバロニー君の分析結果は、「寂しいなあ」「もっと相手してくれないかなあ」「ヒーローになりたい」と、相手して欲しいという分析に、みんなワンパターンやなあと気にしなくなり、ほんの数日間だけ面白がっていじってはいたが、バロニーもあまり吠えることが少なく、最近はバウリンガルもテーブルの上に放ったままになっている。

 ある日、新聞を読んでテレビのリモコンをとろうとしたら、バウリンガルに文字が出ている。<ママサン、ママサンチョットキテ、ヘンナヒトガオムカイニ、ハイロウトシテイルヨ、キットドロボウダヨ>、ええっ!バロニーが私を呼んでいる?
 走っていくと、バロニーは哲学的な顔をして外を見ている。(なんだ、吠えていないのに文字が出たよ)と言うと、<ママサンホエタラアヤシイヒトガニゲチャウヨ、ハヤクケイサツヨ、ヨンダホウガイイヨ>私は訳もわからずとにかく百十番した。
 お陰でこのあたりに出没していたコソドロは御用と相成り、私は警察から感謝状をいただいてしまった。
 その後、首をかしげながら、バロニーに褒美のおやつをやろうとしたら<ママサン、マダキガツイテイナイノ?ママサントボクハテレパシーガツウジルンダヨ>(まさか、まるで筒井康隆の世界だね)
 <ソウダヨ、デモイヌトテレパシーガツウジツヒトハ、ゼンセガイヌダッタヒトトシカ、コウシンデキナインダヨ>(じゃあ、私の前世は犬だったの?どんな?)<ソレハボクニモワカラナイケド、ボクトヨクニテルトイワレテイルカラ、キットブルドックデハナイカトオモウヨ>(かも知れない、顔は怖いけど思いやりがあって優しい性格までそっくりだもんね)なんだか嬉しくなってバロニーのおでこにチュッとしてやった。
 <ウレシイナ、コノゴロミンナ、チットモアソンデクレナイカラサミシカッタ、ママサントキドキボクトハナシシヨウネ>(うん、そうしよう、テレパシーは離れていても交信できるし、何時でも話せるから便利だね、また、いろいろ教えてね)

 翌日、(バロニー駅まで一緒に来て、宝くじを買いに行くから・・・)
 <≒√∽♯‡※▲> 突然テレパシーが混線してしまった。
                                                (2005.2)


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by taizann | 2005-04-22 18:47 | エッセー

戦艦「阿賀野」との出会い   

私達夫婦は、子供が小学校に入る時学童保育所に預けることにした。
そのときの保護者と毎年12月の第1土、日に一泊旅行をし、もう15年近く続いている。 

 この旅行が始まった翌年の平成7年の旅行の時のことである。
加賀温泉方面に決まり、北陸本線の特急「雷鳥」の指定席がグリーン車しかとれず、いつになく豪華気分で乗りこむことになった。
 いつものメンバー7人の座席に一人偶然、かっぷくの良い老人が座った。中年のうるさい我々団体は、その老人の相手を、中でも接待上手な1人のメンバーに任せ、加賀温泉駅に着くまで、毎度のことながら喋りづめであった。その老人は途中の駅で降りたようであった。
 目的地に着くと、「ねえ、あのおじいさん山代温泉に行く時は、「ホテルききょう」に行くと良い、田井から聞いたと言えば、特別歓待してくれるよ」と言っていたという。「へえーどういう関係かねえ、オーナーかなあ」「その話、眉唾もんだねえ」「しかし、どこかセンスもよく、品があり、まんざら嘘でもなさそうだったよ」とそのメンバーは気になったらしい。
我々も、そのことはそれで忘れていた。

 その後、私は先輩の退職旅行の幹事があたり、どこかよいところは無いものか考え、この眉唾事件を思い出した。早速、「ホテルききょう」に予約の電話を入れた。
ホテルでは「田井さんのお知り合いですね」「雷鳥の方ですね」と従業員の方にもすでに有名であった。
 退職旅行は二の膳、三の膳の豪華料理で、おみやげまで頂き、どうやら、田井さんはそのホテルと深いかかわりのある方らしいことがわかった。
 
 お礼の電話を田井さんにした。「この次の、2月17日にいらっしゃい、お祭りをします、招待にします、特別歓迎しますよ」とのことであった。
「2月ならカニがおいしいし、行こうよ」と友人を誘い、あつかましくも出かけた。
 ホテルの入り口で、田井さんが「よく来てくれた」と握手してくれた、なぜか、その手の暖かさとやわらかさを今でも忘れることが出来ない。
 大広間に案内された我々は、その時初めて「阿賀野を偲ぶ会」に招待されたことを知った。

 昭和19年2月17日、戦艦「阿賀野」は米軍の魚雷を受け南洋のトラック島沖で沈没したのであった。乗組員800名余りのうち、助かって日本に帰れたのはごく僅かであったという。
 その「阿賀野」の乗組員と遺族が毎年2月17日に、日本全国から集まり亡き戦友の霊を弔っていたのである。
 
 少ない乗組員は、海軍の制服と帽子で正装し、ラッパが鳴り、整列、敬礼となると、全員は黙祷し、ピーンとした空気が張り詰めた。
 「戦友が南の冷たい海の中から、一緒に日本に帰りたいと叫んでいる声が聞こえる、連れて帰ってくれといっている。今日は障子の向こうに全員揃っている。こんなにうれしいことはない」と誰かの朗読が始まると、事態を呑み込んだ我々は、感!極まりウルウル、ハンカチを取り合って涙した。
 戦友の無念を思い、たとえ今日1日なりとも共に仲間を偲び楽しく飲んであかしたい、みんなの気持ちが、さすがの我々2人にもジーンと伝わってきた。
 戦争の悲惨さ、敗戦の惨めさ、何よりも、日本に帰れた安堵の喜びが、多くの仲間を失ったうえに、生きていてよかったのだろうかと思い悩まれたであろう日々の辛さを思うと、私にはどんな映画や体験談よりも、この目の前の現実に胸が傷んだ。
 
 会は田井さんの見事なタチさばきと力強い太鼓で幕があき、その後楽しい“祭り”が催された。
 広間には、小さい子供さんも含めて50~60人おられたように思う。田井さんは、すでに80歳を超えていると言っておられたからみんなそこそこの歳の乗組員の方と、夫婦ずれの方、遺族の家族の方たちであった。
 みなさん、顔なじみの様で、およそ場違いの珍客が気になると見え、「貴女たちは、どちらの身内の方ですか?」「ひょっとして、田井さんのお妾さんの子供さんかな?」と怪訝そうである。
 しかしそれも最初だけ、あとは、お年を召した方達に取り囲まれ、写真に入ってくれ、写真を送るから住所を知らせて、来年も来てくれ、これ食べてくれ、このカニ家に持って帰れと、とんでもなく可愛がってもらったのである。
 
 その夜は、みなさんの晴れ晴れとした交流の様子を思い浮かべ、友人と、きっとこの会は、乗組員や遺族の方たちの戦後の思いを共有する場なのだ、むしろ、この中に入れない人たちの方が悶々とした日々を送っているのかもしれない、などと遅くまで話していたら、神経が高ぶり、なかなか寝つけなかったのである。

  帰りにはたくさんのお土産を頂き、言葉には言い尽くせないほどのもてなしを受け、帰ってから私の周囲は、しばらくこの話題が持ちきりであった。
 この偲ぶ会には、翌年もカニには目のない友人を連れ参加させていただいた。
その後、2月17日がうまく休みがとれないなどの理由で、田井さんとは年賀状だけの付き合いとなっていた。

 最近なぜか、エッセイを書くようになったせいであろう、田井さんのことがしきりに思い出され、この奇妙な出会いを書きたい、田井さんに詳しく聞いて「阿賀野」のことを書き残したいと思い出したら、居ても立ってもいられない心境になってきたのである。
 
 
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しかし、困ったことに連絡先を書いた手帳を探せど見当たらない、どうやら退職後、“整理とは捨てることなり”とばかり古い物を張り切って捨てた覚えがある。
年賀状も、自己流虚礼廃止論で頂いた人にしか出さないという失礼をした年があった。
 それならと、ホテルに電話をしてみた。「数年前になりますが、戦艦「阿賀野」の遺族会にお邪魔したものですが、今でもその遺族会はそちらでされておられるのでしょうか」「いいえ、三年前、いやもっと五年位前からされていません」「すみませんが、田井さんの連絡先を教えていただけないでしょうか」「田井さんはその頃から、体調を崩され、お悪いようで、私たちも連絡できない状態なのです」

  なんとしたことだろう。あの達筆で筆まめな田井さんから年賀状が来ないことに、何故気がつかなかったのだろう。そのころから、具合が悪かったのではないだろうか。大阪のセンイシテイと言うところで店を構えていたが、それも息子にまかせて隠居の身であると聞いたように思うが確かではない。
 ほとほと、自分のいい加減さに愛想が尽きた。なんという恩知らずな、情けの無い人間なのか。

 翌日から、インターネットで調べるという手があると検索を開始してみた。
{戦艦阿賀野}{阿賀野遺族会}{トラック諸島}{太平洋戦争記}{全国遺族
会}{日本海軍}Bフレッツにしていてよかった。朝から晩まで調べた、残念ながら、まだ遺族関係にはたどりついていない。

   * 近代世界艦船辞典より*
 戦艦「阿賀野」は、正式には日本阿賀野級軽巡洋艦といい、最上級巡洋艦以外では日本が建造した最後の軽巡洋艦とある。福島県を流れる全長210kmに及ぶ阿賀野川に由来。1942年6月19日起工、1942年10月31日竣工、1944年2月17日戦没とある。乗組員832名。
 1943年3月10日頃より、作戦に加わり、海軍の数々の支援に従事しては、作戦中止により反転、いろいろな港に寄港を繰り返していたようだ。1943年12月には、カヴィエン北でアメリカの潜水艦発射の魚雷を受け大きく破孔し、90名名が死亡、その後.何度も魚雷命中、修理を繰り返している。
 1944年2月駆逐艦などの護衛を受けながらトラック沖に寄港したところをアメリカの潜水艦「スケート」の発射した魚雷が命中。(戦死者50名)航行不能により傾斜しながら、駆逐艦「追風」に乗組員、負傷者移乗を完了した後、「阿賀野」は沈没とある。
 移乗した「追風」もアメリカのエンタープライス搭載機の発射した魚雷を受け沈没。「阿賀野」の生存者520名が死亡、3月31日除籍とある。

 戦争っていったいなになんだ!
私は、これ以上の言葉が出てこない。

 この検索の過程で、詳しい史実に基づいた太平洋戦争の当時を再現したゲームのあることを知った。
 それによると、トラック島は日本海軍の最大の拠点であったとなっている。そのゲーム名「トラック沖」は2月17日の攻撃で日本海軍は大敗北となるが、「阿賀野」は登場しないようだ。いろいろな海戦を(空軍も、陸軍もあるそうだ)再現したゲームの中にこんな注釈もあった。
 注:これらの設定は「当時の指揮官はどんな気持ちで海戦に臨んだのだろう?」と考える方や「太平洋戦争中はこんな海戦もあったんだなあ」と考える史実中心派の方の為に用意した物である。よって勝敗に拘る方や大海戦愛好者にはお勧めできない。とまで書いてある。

 戦争をゲームにして再現し、商売になっているこんなご時世を、遠い南の海の底で眠る「阿賀野」のみなさんは、どう感じておられることだろうか。(2004・5)    「断章」第22号掲載                                      

by taizann | 2005-04-15 20:24 | エッセー

当世美容院模様    

女性にとっては髪が伸びて、ボサボサになっていると気分まで滅入ってしまい憂鬱になるものだ。今日は書道の教室で褒められた、そうなると不思議と気分がいい、あ、頭でもさっぱりしようとかと、前向きに行動できてくる。美容院に予約を入れると「何とかさせてもらいます」との返事だった。何とかと言うだけあっていっぱいのお客さんだ。「お客さんの来られる日は何故か何時も混み合っていますね」と言われる.

昔、飲み屋さんで「貴女は客を呼ぶ人だ」と言われたがここでもそんなことがあるのだろうか、それなら私がお店を開けば大繁盛間違いなし。

まさか、ただ単に時間的に女性が選ぶ時間が偏るだけのこと。
 
お釜に入って老眼鏡が使えないから、写真や絵を繰って婦人雑誌に目を通すか、うまく寝るしかない。
「先生、お客さんの服がないんです」と困ったように若いお弟子さんが訴えている。そんなバカなことと言わんばかりに先生もお客さんもシラーっとしている。
その内、お店のお弟子さんや若い美容師さんたちが寄ってきて必死のようだ。
先生と呼ばれる二人の美容師さんは手を止めることはない、口であれこれ指図している。
 
どうやら見当たらないという服は、若い女性がこれからパーティに着ていくドレスの上に羽織るボレロ風の薄いものらしい。
 先生が言うには「探してもないということは、帰られたお客さんの持ち物に紛れ込んだとしか思えない、帰られたお客さんのカルテを出して電話を調べ、一人一人電話して聞いて、さっさと」
お客さんの目は心配そうに全員一方に釘づけである。

5時から西の方のホテルのパーティとやらに3〇分もない。「どうしましょう、デパートででも代わりのものを用意できないでしょうか、」デパートまでは5分もかからない。「このドレスとセットの衣装なので困るんです・・」

お釜から開放された私は、どうして何時もこうなのだろう、やおら立ち上がり、よせば良いのにおせっかいを始めてしまう。
 「遠慮しないで、私のカバンやみんなの袋も開けてみれば」だの、その人のオーバーの袖口にでもひっかかっていないか、点検を始めてしまうのである。
滅多にないであろう事件に、どちらも気の毒でじっとしていられない。

 しかし、ギリギリまで、とうとう目的の服は見つからず、しょうがないと諦めてどなたかのショールを纏って行ってしまわれた。
おせっかいの上に一言が多い私は
「勘違いされているんじゃないの?着てきたつもりが実は着てこなかったとか・・」
勘違いと思い込みはオバさんの特権ではあるが、若くても出かける時に慌てて、そんなことないとは言い切れないじゃないの。
「いいえ、確かに私が預かり、小さくたたんで持ち物の上に置いたのです」とお弟子さんもそこだけはっきりしている。

そうか、信じられないことが起こるのが事件になるのだから。
胸元ギリギリ、両肩丸出しのいでたちでも半分玄人の歌い手さんらしいからステージ衣装なら別に可笑しくはないんじゃないのと、一人で納得し鏡の前に座ったのである。

5時を過ぎるとこの店は又忙しい、夜のお勤めの方々のお出ましなのである。化粧バックを前にドンと置き、スッピンから見事に変身である。それが終わると左手にタバコを持ちながら右手で携帯電話のメール作業が始まる、大体どの人も一様である。この間着物用のアップでも30分とかからない、先生の腕が手際よい。変身術に見とれている私を尻目にさっと引き揚げていかれる。

ゆっくり私の頭の仕上げに着いた先生は「ご心配をおかけしました、思わぬアクシデントでおそくなりました」とやっと一言。

(いいのよ、今日はエッセーになるネタを頂きましたから)    
(2005.1)
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by taizann | 2005-04-04 10:45 | エッセー