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FT革命が人類を救う   

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写真 阪田かずを氏 写真集

本年2月、臨床微生物学会が京都の国際会議場で催され、最終日「発酵微生物が人類を救う」と題した市民公開講座に参加しました。

 Fはファーメンテーション(発酵)、Tはテクノロジーのことであり、「FT革命」は、まさに今世紀最大の課題であり、緊急課題ではないだろうかと、深く感銘を受け、その事業に賛同したいと思ったのです。

 東京農業大学応用微生物科学部醸造科学科教授の小泉武夫氏の講演からです。
21世紀人間は、4つの大問題の解決に取り組まなくてはならない宿命があり、1つは環境問題、2つ目は健康問題、3つ目は食糧問題、4つ目はエネルギー問題で、
人類がさけて通る事の出来ないこの4つの問題を、地球に優しく、人類に優しい微生物の力で解決しよういうのが「FT革命」なのです。

 私は、 病院検査室で人間に感染症を引き起こす微生物(細菌)、いわゆるバイキンといって人間にとって良くない部類の微生物の検出と、そのバイキンにはどの様な薬が効くのかということに、長い間携わってきました。

 ところがここでお話しする微生物は発酵菌といって人類を救うことが出来る偉大で有用な微生物の力の紹介です。
すでに発酵微生物は抗生物質として難病から人類を救っています。また、納豆、ヨーグルト、味噌、醤油などの食品でも我々はお世話になっています。

 では、1つ目の環境問題ですが、すでに水質汚濁は微生物の応用で解決されるようになりました。しかし、生ゴミの問題は深刻を極めています。全国の都道府県、市町村は焼却場に膨大な税金を費やしていますが、焼却により発生するダイオキシンの環境ホルモンを生み、社会問題にもなっています。海は海上汚染、山は水質汚染、土壌汚染になり捨てる場所がないのです。

 2つ目の健康問題は、医学の進歩はめざましいものがあるのですが、ガンの治療薬は決定的なものはいまだなく、風邪の特効薬すらないのが実情です。しかも新興感染症と呼ばれる感染症の発生や、生活習慣病は増加の一途をたどっています。

 3つ目の食糧問題は、飽食の日本にあって、食糧自給率は39%と落ち込んでおり、60%以上を海外に依存している危機的状況なのです。先生は自分たちの食糧を自分たちで作られなくなった民族は衰退していく運命にあると言います。地球全体を見ても10年後の150億人の食糧の確保は、人類共通の問題だと言えます。

 4つ目のエネルギー問題は、人口増加にともなう膨大なエネルギーの必要性は地球や人類の存在に関わる問題です。
水力発電の生態系の環境破壊や火力発電による二酸化炭素増大による地球温暖化現象は今や大問題になっているのです。
原子力発電の安全性の問題も指摘されます。こうしてみると、環境や人体に無害で、大きなパワーを出す新しいエネルギー源が必要なのです。

 これらの問題を個々に解決すべき問題として捉え、対策を講じてきているのが実情であったのです。
ところが、これらを一連のつながりで捉え、発酵技術ですべてを解決していくと言う研究に私はとても驚きました。
そして、費用、コストの面でも従来からの壁も取り払われるというのです。

では次回で、その具体的な解決方法を、紹介してみたいと思います。               参考:FT革命{発酵技術が人類を救う} 小泉 武夫著
    

      

by taizann | 2005-05-29 11:14 | エッセー

 どこまでも片思い 2   

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 その後、あのグループは、京都を離れてしまった彼女の消息は知りえなかったが、島ちゃんのその後は、もう一人の彼が毎年うちの病院のドックに来ていたことから、時々廊下で話し込んだりして聞いて知っていた。奈良の一人娘と結婚し、婿に入ったと言っていた。「道ちゃんとよく似た大柄で、気立ての良い人らしいよ」と聞いたときは我ながら恥ずかしいほど動揺してしまった覚えがある。奈良の奥に嫁さんと子供をおいて単身赴任を続け、子供が不登校で悩んでいたとも聞いた。
 
 私も結婚して数年過ぎた頃、メーデーが終わった帰りに職場の同僚と河原町を歩いていて、偶然、バッタリとこの二人の男性に会ったことがある。やはりお互いに懐かしくビアホールで思い出を語ろうやとなったのである。
 仕事のことや、お互いの結婚相手のことや、子供のことなど、ずっと交流があったみたいに喋り捲くっていた。時間と空間を越えた間であった。

 酔いがまわったせいではなく、何でも言える昔が蘇り、「私、昔島ちゃんが好きだったけど見事に振ってくれたよね」「何言ってるんだ、道ちゃんはこいつに気があったんだろう、素晴らしいマフラー贈ったじゃないか」「マフラーに差なんかなかったと思うけど」「俺たちはマフラーの良し悪しが決め手になったんだよ」・・・
 隣の友人はあっけに取られ開いた口が塞がらない様子で、私達三人はといえば、「そうだった のか」「へえー知らなかった」「もっと早く言ってくれ」と大爆笑となったのであった。純愛物語と言うべきか、好きや嫌いを超越した間柄となっていた。

 そんなことがあってから、もう何十年経ったのだろうか。真面目にドックに来ていた彼も定年を前に退職した。同じ頃、島ちゃんも京都の北の方にある共済の施設の責任者を最後に、退職したらしい。奈良の嫁さんと子供のもとへやっと帰れて、きっと、のんびりと暮らしているに違いない。私も長い間勤めた病院を辞めた。人生最後の自分への癒しともいわれる《自分史》なぞへ挑戦している毎日である。

 今季初めての積雪が何年か前のあの山中さんの雪騒動を懐かしく思い出させてくれた。
あの三人は元気にしているのだろうか。
みんながそれぞれの悩みを抱えながら、一生懸命子育て、仕事に、頑張っていたのだ、人のことを気にする余裕もなく流れていった時が今は懐かしい。退職後の特別に穏やかな正月気分に浸っていた。

 電話が鳴った「おめでとう、来月の学会の宿泊の件だけど、私は北の方にある共済の施設に二泊することに予約したけど貴女は近いから通うでしょ」と、いつも仕事の仲間からは、お神酒徳利と言われ、常に学会の時には行動を同じくする長崎の水野さんからだった。
 退職して退いたことにした筈の評議員会の召集を受け、参加はこれが最後になるだろう学会の全国学会が来月京都の国際会議場であるのだ。「ちょっと離れているから私も泊まることにするわ、悪いけどもう一人宿泊を追加して、もちろんシングルね」と返事をしておいた。

  「久しぶりにお稲荷さんにでも出かけてみるか」と言う主人の誘いを「エッセー教室の提出原稿が全然書けていないから」と断り、部屋に篭ってパソコンに向かった。頭にまとまっていない文章は、書けるものではない。(明日になればなんとか)、諦めの早い性格だ、さっさと寝ることにした。

 学会当日会場に行く前に宿に荷物を置いてから地下鉄に乗ろうとしたら、水野さんに出会った。何か、およそ学会に行く格好とは程遠い着物姿ではないか「どうしたの、そんなにおめかしなんかして」「うん一日目は友達と出かけることにしているから」と言ったその後ろに島ちゃんが同じように着物姿で立っていた。「うそでしょう、島ちゃん、そんな筈ないよね」島ちゃんは笑っていた。

 二人が乗ったタクシーを見送りながら “島ちゃんが私を裏切るだろうか” “あの人が私を裏切るだろうか”               

 枕が濡れていた。鮮明すぎる夢を見た。   (2005.1)

  〔写真提供 阪田 かずを氏「花に生きる」〕

by taizann | 2005-05-20 10:49 | エッセー

どこまでも片思い 1   

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        あれは久しぶりに山中さんが京都に出て来た時のこと、もう二十年近くも親友といえる付き合いで、知らん振りしているわけにはいかない、というより私も喋りたいことがたくさんある。
 どこか案内もしなければ、あの海の幸に恵まれた金沢に住んで贅沢三昧の話をよく聞かされた、舌の肥えた人だ、旨いところでの食事の用意も考えておかなくてはと私は急にあわただしくなったのだった。

 全国珠算連盟の大会があるとのことだった。
大会では彼女が低迷を続ける珠算教室のこの一年の取り組みについて成果を発表するらしい。彼女と話しているといつも「相当なやり手だ」と感じることが多い。
 
 泊まるところは西の方の公務員の保養施設となっているホテルを大会の前日分を予約したと聞いて私は驚いた。
そこには30年以上前にグループ交際をしていた時に私が心を寄せていた島ちゃんが副支配人をしていると風の便りに聞いていたからだ。

  何も西のほうに泊まるのにこちらに出て来てもらうこともあるまい、私のほうが西に行けば済むことである。いい所を島ちゃんに頼んでみよう、それに島ちゃんにも会いたいし。
 「島ちゃん、私、旧姓寺田、道子です、覚えてくれているかなあ?私の友人がそちらに一泊するらしいので、夕食に気の効いたいい所をお願いしたいけど、」「おお、懐かしいなあ、元気にしてるか?そんなことお安いことだよ、任してくれ、ちゃんとしておくよ、道ちゃんも来るのか」「もちろん、ざっくばらんな友人だから、島ちゃんも同席してよ」と話はまとまり、万々歳となった。

 その日は副支配人は仕事中だといって食事には付き合えないと伝言があったが、京都らしい上品な懐石料理で私と彼女は大満足であった。
 ちゃんと二次会のカラオケまで用意してくれて彼も、夜中まで一緒に歌い盛り上がってしまった。帰りは南の端の我が家まで送ってくれた。
 私はシンシンと今にも雪でも降り出しそうな、冷え込む夜に、又西の方にある 寮まで帰っていく島ちゃんを帰したくなくて、いつまでも離れたくなくて切ない思いに駆られた。
もちろん、そんなことで情に流される彼ではないことは重々わかっていた。
 
 翌日は案の定、夜半からの雪が降り積もり、あたり一面真っ白で京都には珍しい大雪となっていた。夜遅く山中さんから電話があった。
 「今、金沢に帰ったところです。ありがとう、それにね、あの副支配人には特別お礼を言ってね、後日お礼の手紙も書くけど、雪になると京都ではタクシーが動かないのね、びっくりした、朝、会場に行けなくて困り果ててしまい、副支配人に相談したら私の車を出しましょうと言って会場まで送って下さったのよ、本当にいい人ね、ところで貴女とお二人の関係はどんな関係?かなりと思いましたよ」と。 
 
 長い間私の片思いだったと思うことにしていた人である。十何年ぶりに会ったけどちっとも変わっていない彼が懐かしく、山中さんが「かなり」といった言葉がむしろ嬉しかった。
 結婚前、私は男二人、女二人のグループ交際をしていた。
四人はよく気が合い、いつも何処へ行くにも連れ立って歩いた。何を話しても楽しく、毎日会っては笑ってばかりいた。
 
 そしてその頃私は毛糸の手編みに凝り始め、まず一番に好きな島ちゃんにマフラーをプレゼントした。少し上手になってから、もう一人の男性にあげた。しばらくして島ちゃんじゃないほうから思いを告白された。
 しかし、私ではないもう一人の女性が彼を好いていることがわかり、4人の仲は案の定、しっくり行かなくなり彼女も京都を引き払ってしまったのだった。 
 
 私はずっと前から、「島ちゃんはきっと私を・・・」と思い込んでいたところがあり、本心を聞いてみたくなり二人になったときにそれなりのことを言ったように思う。
 が、ひどくプライドが傷ついたことだけが記憶に残る結果だった思い出の人なのである。
私は副支配人にお礼の電話はしなかった。
 彼にはそんなことは当たり前のことで、その当たり前の“優しさ”に若かった私は参っていたことを思い出したからだ。   2005.1                              

 〔写真提供 阪田 かずを氏「花にi生きる」〕

by taizann | 2005-05-15 09:13 | エッセー

世界で2人だけ   

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 岩手の叔父さんと2人だけの姉弟 (きょうだい)の私たちは小さい頃よく喧嘩をしました。 
性格が入れ替わった方が良いくらい、姉の私のほうは気が強く男勝り、叔父さんは昔から本当に優しく、両親と一緒に暮らしてくれて、今でもその優しい性格はちっとも変わっておらず、里帰りする度にありがたいと思っているのです。 私が高校を卒業するまで一緒に暮らしたのですが、私が弟をつき飛ばした覚えがあるほど激しい喧嘩もしたのです。
 そんな私たちにおばあちゃんは「アナタたちはこの世でたった2人しかいない姉弟(きょうだい)なのに、仲良くできないの?
きょうだいは助け合って生きていかなくては」と、よく説教されたものでした。
 今にして思えば3人目の妊娠で大病し、二度と子供を生めない悲しさがおばあちゃんには篭っていたように思うのです。
私たちは、そんな姉弟(きょうだい)だったけれども、離れ離れになって暮らしていても、困ったときにはいつも助け合って生きてきたと、この歳なって胸を張って言えるのです。
 
 さて、あなたたち兄妹(きょうだい)もたった2人ですね。
お兄ちゃんはお腹にいた時から元気いっぱいで、よくお腹を蹴っていたし、暴れまわっていたらしく逆子でね、お母ちゃんは大きいお腹で逆子を直す体操をしなくてはならず大変でした。
 予定日の12月13日になっても産まれる気配もなく私は、その日は岩手から出てきたおばあちゃんと「第九の夕べ」を聞きに行きました。おばあちゃんはハラハラしながら、「第九」の夕べを聞いたそうです。
 1週間過ぎても陣痛は起こらず、23日の私の30歳の誕生日までに生みたいといって点滴で陣痛を起こしてもらいましたが、とても難産で首にへその緒が巻きつき吸引分娩となり、布袋さんの様に長い顔で出てきてみんなはびっくりしたそうです。3050グラムでした。
 お乳も良く飲み元気いっぱいでしたが、しばらくして、夜泣きがひどく、夜中にお父ちゃんとよく車に乗せて走り回りました。車に乗せると不思議と良く眠ってくれました。
 10ヶ月でもう悠々と歩いていましたからね。ちょっと大きくなって、蓄膿症のせいで中耳炎に罹ることが多く、お父ちゃんは毎日、保育所から耳鼻科へ、また保育所に行き職場に戻るという昼休みを続けてくれました。
 小さいとき、妹が「変な人がついてくる」と夜帰ってきたら「何ッ!」とバットを持って飛び出して行ったことあったよね。お母ちゃんと2人でテレビの「宇宙戦艦ヤマト」を見てよくハンカチの取り合いをしたよね。回りの面倒を見て優しい性格だと良く言われ自慢の子でした。
 
 妹の貴女は、3月の末が予定日でしたが3月8日、3180グラムでお兄ちゃんより大きく生まれました。
 ところが、お乳を飲んでくれず、体重が増えず、病院で預かるといわれ、私だけ退院し、お乳を搾り毎日病院へ運びました。腸が弱かったのかよく下痢をして、保育所の先生はニラがお腹に良いとよくニラのお粥をしてくれて、そのときからきっとニラが好きになったのだと思います。  私が出張のときには、斉藤のおばちゃんに面倒見てもらい、出張先から電話をすると「オムツ洗いばかりしている」と、こぼされました。保育所では、1日3回昼寝をする子だとびっくりされました。
 中学から高校と吹奏楽部を頑張り続け、高校最後の演奏会のマーチングでの一生懸命の演奏はお父ちゃんもお母ちゃんも胸が一杯でジーンとしました。本当によく頑張りつづけましたねさすが、日本一の吹奏楽部だと思いました。
家中の誕生日や、母の日、父の日は忘れずにプレゼントありがとうね。

 妹の夜勤の時にはお兄ちゃんが必ず送っていくと言うのが、もう何年も続いていますよね
なかなか美しい兄妹(きょうだい)愛だと思っています。

結婚してもずっとそのまま仲良くね。

 いつかあなたたち「世界で2人」にも、おばあちゃんの言葉をそのまま伝えたいと思って来ましたが、2人は充分「優しい」、改めて言うこともないですね        (2004,12)
 
  
  
 

 
 

by taizann | 2005-05-01 15:42 | エッセー