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現地取材会   

朝日新聞大阪本社 
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朝日カルチャーセンター京都の「エッセー教室」の3月講座は現地取材会であった。
私にとって朝日新聞大阪本社は、叔父が記者として活躍していた職場でもある。
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3月23日(木)エッセー教室の午前、午後の受講生40人は11時30分に朝日新聞大阪本社アサコムホール前に集合し、まずは本社ビルの13階にある有名なレストラン「アラスカ」にて、昼食をとり腹ごしらえから始まった。
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2班にわかれ、記念撮影のあと24時間体制での新聞発行までの行程を見学し、最後にビデオで朝日新聞のマスメディア活動の模様を観賞。
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朝日新聞は1879年第1号創刊以来、127年の伝統と歴史を誇り、記者数2500人、社員7000人、発行部数830万部(朝刊)という。


← 創刊当時の印刷1号機「だるま」またの名を「おたふく」


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地下4階から地上10階までの新聞社内は、
すべて自動化され、人は機械を点検するだけのようであり、24時間フル稼働していたが、3階の編集部だけは記者たちの活気であふれていた。



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世は、パソコンを開ければ、なんでも事足りる、インターネットでどんなことでも調べられ、瞬時に世界中のニュースを見ることができる。
☆ これからの新聞はどのような運命をたどっていくのだろうか。
☆ 新聞の「報道」と「言論」の役割は、どのような時代にあっても人間の尊い使命           感に委ねられている。 
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        ↑ 私はこの標語が大好きである  

        頑張れ!朝日新聞

by taizann | 2006-03-26 14:33 | 現地取材

おじいちゃんに会いたい   

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(「反三猿の意」 見ざる、言わざる、聞かざるはよくないと書いてます)

母方の祖父の先祖は、今の鳥取県の池田藩の武士だったようだ。“武士は食わねど高楊枝”を地でいくようなプライドが高く、いつもかくしゃくとした人だった。
私と弟、母の親子三人は、毎年夏休みになると岩手からはるばると汽車に乗り、母の実家の京都に遊びに来ていたのだった。
昭和二十年代の当時は、石炭のススが窓から入ってくる汽車で、二十六時間かかったのを覚えている。なぜかいつも満員列車で道中弟が水をせがんで泣き、ホームへ出るのに苦労したことだけが思いだされる。
それでも私達親子は、毎年毎年京都で夏を過ごしたのである。その頃の京都は暑かったという記憶がない、弟は叔父と毎日御所に蝉取りに行くのが楽しみだった。
 祖父は書道家であった。書道家と言われるのを嫌っていた。単なる商売文字を書いているだけだと言っていた。古今東西、芸術で飯が食える世の中ではない、きっと飯が食える商売を選んでいただけなのだ。
c0072993_13453097.jpg私の記憶にあるのは、ほんのりと墨のいい香りがする大きな部屋でいつも、机に姿勢正しく向かって筆をとる祖父の姿である。よく京都市の賞状や、感謝状のようなものを書いていた。それでも時々、自分の書きたいものに挑んでいたように思う、今残っている祖父の形見には、「どうだ」と世に問うてみたい芸術品じゃないかと誇れる書物が、親戚の財産として何点も残っている。
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口数は少なかったが、ことわざや養生訓のようなものが多く残っているところをみると、後世に伝えたい、言いたかった祖父の信条が今になって伝わってくるのである。

 私が小さいとき、習字を習い始めていきなり書道展で特選をもらったことがあり、両親も自慢だった。私も祖父に喜びを期待して、「書道家になろうか」と言ったら「無理」と一蹴され、その時から私の“字”に対する自己満足は消え去った。
祖父の初孫であった私は特別可愛がってもらったと両親からいつも聞かされた。  
京都ならいいと両親が私の就職先を了解してくれたが、考えてみるとそんな祖父へ 私は恩返しをしただろうかと思う。c0072993_13544779.jpg


「おじいちゃん、仕事辞めてから、また、書道教室に行き始めたよ、字を書くってむずかしいね、もう少し上手になりたいからまだまだ頑張ってみるからね」
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私が京都に着てから数年後“洛央 泰山”は、静かに逝ってしまった。祖父らしく見事に身辺を整理し、捨てるものがないと、家族の涙を誘う最後だった。
もう少し生きていて欲しい八十二歳だった。

by taizann | 2006-03-09 14:03 | 自分史