引揚者の思いと共に  旅行記 NO2   

翌朝、ホテルの我々の部屋の入り口にメモが差し込まれていた。「街を散策してきますので、食事はお先にどうぞ」と書かれていた。
遅い朝食のバイキング会場で散策に行っていた2人に会った。「あった、あったんよ」と嬉しそうであった。

2人は早起きして、自分たちが暮らしていた場所を探しに行ったのであった。
果たせるかな、旧満鉄社宅は残っていたらしい。
何棟かのうち2棟が残っていたらしい。取り壊しの対象になるほどの建物になってはいたが、人も住んでいたと言う。確かにたどり着いたのである。

彼女たちはしっかり昔の場所を調べていたのであった。しかも、松風台とは、ガイドさんの卒業した大連外国語大学のふもとであったと言う。その社宅の傍の一角で、学生がたくさん朝食を食べていたらしい。見るからに学生向きの安そうな店が多かったらしい。

ガイドさんが知らないはずはない、

だから反応が鈍かったのだ。我々5人はすべてを察知した。どうもこの旅行社は大連の表しか見せていない、貧富の差はまだまだ残っていると言いながら貧の部分は見せない、どちらかと言うと富の面ばかり目に入る。偏見を取り払ったとしても、北京や西安に見た中国らしい庶民の生活の匂いがしない。
“まだまだ、中国では大学卒はエリートであろう、ガイドさんもプライドが高そうだ、大連の街に誇りを持っている、恥となるような大連は特に日本人には見せたくないのかもしれない”と我々一向はそれですべてを納得することにしたのであった。


2日目は203高地への予定であった。
交通渋滞に遭遇した、日本の共通一次試験みたいな日であったらしく、大学の近くではクラクションを鳴らすのも禁止だそうだ。

渋滞の車の中では、ガイドさんの流暢な日本語で「学生時代、天安門事件のきっかけになったデモに自分も参加した」話や、「文化大革命で紅衛兵に父親が糾弾された」話など興味深い話をたくさん聞いた。

さすがに、日本語を選考しただけに、日本の風土、しきたり、現在の日本の情勢にもなかなか詳しい。よく勉強していると感心した。

「東條英機を祀る靖国神社に一国の首相が参拝することを日本人はどうして許しているのか」と言われた。前の方に座っていた友人が「別に許しているわけではないが、憲法違反を平気でやる男だ」と言ってのけた。私も同感、そう答えたであろう。

203高地ははるか昔の明治の戦争の跡を記念に観光地にしているのであるが、観光客は結構日本の若い人が多く私には意外であった。

その後、星海公園、老虎灘公園など市民の憩いの場となっているところを案内してもらい、その日の夕食は海鮮料理で乾杯した。
ガイドさんは「よく食べてくれて嬉しい」と感心している。お年寄りの方たちのツアーが多く、戦友会の方たちであろう、食べ物が残るらしい。その点我々の5人はよく食べる。中華と言ってもあっさりしていて本当に美味しかった。

その夜はみんなで夜の街に繰り出した。ホテルが大連駅の近くで繁華街にはすぐであった。アカシアの花を模った街灯が可愛いし、夜は夜でまた美しい。
友好広場には、巨大な水晶球のモニュメントが、赤、緑、黄色とライトアップされている。めでたい、平和と希望、豊かさを象徴しているらしい。大連市の標語であり、主張であろう。夜の公園には若者が溢れていた。

三日目、午前中はフリータイムであり、私はお土産を物色して歩いた。例の2人は懐かしい思い出の街へもう一度足を運んだらしい。
そんな2人の気持ちがとてもよくわかった。またいつ来れるかわからない、もう一度来たとしても今度はないかもしれない、そんな時代の流れを感じる。もう何年かしたら日本と大連の歴史は風化してしまうのだろう。

大連を離れるとき、Kさんは「母を連れてきたかった、何故、もっと早く来なかったのだろう」としみじみ語った。手には生前彼女に、お母さんがくれたものだと言う大連の思い出を書いた手紙を握っていた。
そして、「井上ひさしの大連“写真と地図で観る満州”」という本を貸してくれた。中をめくると、黄緑の蛍光ペンでたくさん塗りつぶされてあった。
何度も何度も読み返したのであろう。

5人は関空で「必ず写真交換会をしようね」と約束をし、「次もこのメンバーで、ハルピンに行ってみたいね」などと話しながらそれぞれの家路に着いた。


家に着くと偶然にもNHKの「その時歴史が動いた-203高地」を放映していた。
(そうそう、今年は旅順陥落100周年にあたると言っていた)「どうだった?」と主人は
お茶を入れてくれている。「うん、思っていたよりきれいな街で気に入った」と答えたが、
私は203高地の資料館の出口にあった中国語だけの声明文を思い出していた。

読めないが「日本軍、残虐、屈辱、決不忘、平和」の文字が目に焼きついているからだ。この旅行の中で、中国の人々の言いたいことに始めて触れたように感じた。


今回の体験をエッセーにするのは私には憚れる。おこがましい。だいそれている。 
そんな思いが次第に強くなってくるのであった。

1946年(昭和21年)5月以降、満州から100万人を越える人たちが故国の土を踏んだという。
                                            引揚者の思いと共に  旅行記 NO2_c0072993_11535432.jpg(2004、7, 7)

by taizann | 2005-03-16 11:54 | エッセー

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