無言館の画学生たち   

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本来ならば、今頃は「冥土へ行く前に冥土を見る」といわれる程の美しい中国の世界遺産の九寨溝に行っている筈だったのです。それが例の反日デモの影響をまともに受け、中国への旅は延期となったのでした。
急遽、前から、一度は訪れてみたいと思っていた信州上田にある、慰霊美術館の無言館へ行こうと友人と話がまとまったのです。
 
それは、長野県上田市に戦没画学生慰霊美術館「無言館」として1997年に開館されました。
洋画家で東京芸術大学名誉教授の野見山狂暁治さんと信濃デッサン館館主の窪島誠一郎さんが全国の戦没画学生の遺族を訪ね、寄託されたものを展示する小さな美術館です。
そしてその建設資金は、全国約3800名の篤志家から4千万円余の支援金が寄せられたそうです。
 
上田市の塩田平の丘陵地帯に、木々の深い緑に囲まれ、山王山の小高い頂に、無言館はひっそりと建っていました。 一歩中に入ると、コンクリートだけで囲まれた展示室には、太平洋戦争や、日中戦争で亡くなった東京美術学校の画学生、卒業生42人の遺作85点余と彼らが愛用したイーゼル、画材、家族、友人へ宛てた書簡なども収録、中には、死亡通知書なども展示され、色褪せ、痛みも激しく、長い風雪を感じる遺品ばかりです。
 
その絵が上手いものか、絵画に疎い私にはわからないのですが、確かに完成していない、純粋に絵が好きで、描くことが好きだった若者の未完成な絵がありました。
 突然、絵筆を銃に持ち替え、愛する家族、愛する故郷を置いて、二度と戻らなかった短い人生が一枚一枚の絵にはエピソードとして残っていました。
彼らは、誰かにほめてもらいたいとか、コンクールに出して賞を取ろうとか考えて描いたのではなかったでしょう、絵を描くことが好きだったのです。戦争に行かねばならなかったその瞬間まで描き続けていたのでした。
 
蜂谷清さんは、戦争に行ったら、もう大好きだったおばあちゃんを描くことはできないと皺の一本一本まで「おばあちゃん」を描き残して行きました。
 
太田章さんは、庭木の横にしゃがんだ浴衣姿のおさげの妹さんの絵を残しています。
兄を見つめる妹の瞳がまるで仲の良かったこれまでを物語っているようです。

 曾宮俊一さんは「風景」、俊一さんの父は晩年になるまで息子の戦死のことは口にしなかったといいます。目が見えなくなり、90歳を過ぎた頃、一言だけ「悔しい」と。 

 家族にとってどれほど尊い存在だったかどれほど大事な絵であったか、を思うと字が霞んできて読めなくなるのです。

 彼らは、今我々が失いつつある家族、兄弟、友人との絆の尊さを教えています。

 画家の野見山氏は、戦地で亡くなった画友たちにささげる熱い鎮魂の思いが出発になった、そして、 戦死した仲間たちの絵が一堂に勢ぞろいしたら、不思議な光を放つに違いない、声が聞こえるに違いないと言われました。
 
 窪島氏は、遺族の前に立ち、画学生の遺作の前に立つたびに、それまで置き去りにしてきた「自分の戦後」と真正面から向き合うことを余儀なくされたと言います。画学生たちの合唱は彼らたちだけの声ではなく、戦後を生きた遺族それぞれの呻吟であっただろうとも言っておられます。

 彼らの絵は何も言いません。戦争に行きたくないとも、反対とも、死にたくないとも。
 
 でも彼らの絵の前に、私と友人は、時代の理不尽さを思い知り、言葉なく無言館を後にしたのでした。

参考:窪島誠一郎「無言館」の坂道
            無言館の詩
 
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by taizann | 2005-06-13 13:49 | エッセー

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