懐かしい風景   

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   麦秋や
         幼なじみが 見え隠れ   (泰山)

五つの時から高校卒業するまで過ごした故郷は、いつかどこかで見たような形で懐かしく今でも夢に時々出てくることがある。私の生まれは京都なのであるが、父の仕事の都合で東北に移り住んだのであった。
岩手県一関市、中尊寺で有名な平泉の隣町と言うほうがわかりやすいかもしれない。
山と川がある街という表現がピッタリとくる宮城県との県境の静かな小さな田舎町で、ここに私と母は、駅から数キロ離れた中里地区という蘭梅山のふもとに父が用意した住宅にたどり着いた。母はその時、臨月だったらしい。
復員してきた父も、知らない土地で戦後のどさくさを生きていかなければならなかった母も、今から思えば大変な苦労があったであろうと想像するのである。
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蘭梅山を中心にして、ふもとに小学校があり、中腹には中学校があり、その近辺にみんなの家があるのどかな風景だった。
近辺と言っても、当時は分校もあったから、今の都会とは桁が違う通学範囲だったのであろう、分校の生徒は小学五年になると本校に合流して来た。

中学のある丘からは遙かむこうの山が見渡せ、あたり一面田園地帯で田植時期になると、緑の巨大な絨毯になり、稲穂が実ると金色の絨毯に変わった。これが大雨が降ったりすると、向こうの山のふもとから、銀色の水がジワジワと押し寄せてきて、巨大な沼と化し水害となった。向かいの山のふもとは北上川の支流の磐井川との分岐点で川幅が狭く、よく水害になったのである。そして校内放送が流れた。「○○地区の生徒はすぐ自宅に帰るように」と、同級会があったりすると、この地域の同級生は、この放送がとても嫌だったといつも話題になった。かわいそうに家に帰ると家具も何もかもが汚水に浸ってしまっているのだから。
しかし、私は中学の校庭から植えたばかり緑の絨毯が一面水色に変わり美しい、その水面を太陽がキラキラと光る一大パノラマにしばらく見とれることが多かった。
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一関地方は終戦直後の昭和二十二年のカスリンと翌年のアイオンと二年続きの大きな台風に見舞われ、大洪水が市街地を中心に壊滅的な被害を与えたのである。
私の家は、この時に建てられた復興住宅であった。何世帯あったものか、思い出せないが、今で言う二戸一式の粗末なものであったが、貧乏長屋暮らしとも言うべき毎日は、どこの事情も良く知ったもので、近所、隣同士助け合い、気心の知れた仲だったように思う。朝、「納豆に、お豆腐いらんかあ」と言う納豆売りの声で目が覚める。ずっと昔から回っているのだろう良く通る声のおばちゃんだった。 近所のお母さんたちは、「お茶っ子飲みさございや」と言って自慢の漬物で「お茶っ子のみ」をし、子供たちはその回りで遊んだ、保育所や学童保育所なんて必要のない世界のようであった。
春には、つくしや蕨とりに興じ、磐井川の堤防の桜並木を見ながら数キロさきの高校まで歩いて通い、夏はこの住宅の行事で大型バスで三陸の海岸まで海水浴に連れてもらった。秋はまた、紅葉が特別鮮やかだった。ちょっと山に入れば、栗、アケビ、山ブドウ、山の幸がなんでもあった。、冬は、昔はカマクラを作れたほど降ったし、ソリ遊びは家の裏の坂で豪快に滑ったものだ。今頃、故郷の四季折々の良さがわかり感慨に浸るのは、年をとった証拠かもしれない。その時には、その良さがわかっていなかったように思うからだ。
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私が東京の学校に入り、しばらくしてから
この一帯の住宅は火事にあい無くなっている。この火事の時は同級生が手伝いに駆けつけてくれたと聞いている。弟が通っている時に小学校は燃えてしまった。わたしが一年に入ってすぐ高校も燃えてしまっている。中学校は残っているが、近く統廃合になるようだ。
京都に住んで四十年近くになるが、この一関で過ごしたわずか十年余りにしかならなかった生活や近所の様子は、今でも鮮明に覚えて忘れない。

私の故郷はここしかないから。

by taizann | 2005-07-23 15:11 | 自分史

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