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やっと、母のことを   

白鳥が舞い戻った日
                                   写真:《母のもとへ》  (転載許可済)
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 母は昨年十月に亡くなりました。八十五歳でした。特にここ二十年余は、到底そんなに長生きできるとは思えないほど、病気がちの一生でした。家族や回りの人間は何度も覚悟をしては、その強い生命力に救われたのでした。生命力が強いだけではなく、病気と正面から向き合い、いつもよくなろうと努力する強い精神力を持っている自慢の母でした。
今回も暑い夏の日、急に弟から「家族を呼ぶように」と言われたとの連絡で、急ぎ帰り、人工呼吸器とたくさんのチューブで維持している姿を見て、「もう、楽にしてやりたい」と何度も思ったほどだったのです。しかし母は奇跡的に蘇り、ようやく東北にも秋が訪れた頃、「来週には退院してもいい」と言われたと弟の携帯電話から、嬉しそうな声を聞いた矢先に、突然脳出血を起こし、長い眠りのまま、二度と意識は戻りませんでした。
私も後悔だけはしないように、精一杯出来ることはしたという自負もあったし、岩手と京都と離れていた為に、親の死に目には会えないかもしれぬと思ってもいたし、何よりも電話の向こうで「私は幸せな人間やねえ」といった最後の言葉に満足して、通夜、葬儀を滞りなく済ませて帰ってきたのでした。c0072993_1481629.jpg
岩手にも初雪の便りを聞いた十一月の末日、母の四十九日の法要のため帰りました。
お寺の庭には雪が残っていたものの、その日は見事なほどの晴天に恵まれ、参列の方々と無事骨納めも済ませたとき、お寺に戻る一行は、「クワッ、クワッ」と聞きなれない鳥の鳴き声に空を仰ぐと、、四羽の白鳥が飛んで行くのを見ました。そして、その中の一羽が戻ってきて私たちの上を何度か舞って、そしてまた飛んで行きました。この感動的な光景は、 後の法事の席でもみんなの話題をさらいました。
 花が好きだった、器用な人だった、面倒見のいい人だった、と母の思い出話は尽きず、
皆は時間が経つのも忘れ、大いに盛り上がり、楽しく賑やかなひと時でした。
弟は、「小さいときから、一度も怒られた記憶がない」と言うのです。そういえば私も心配をかけたが、怒られたことはありません。
優しいと言うべきか、人の心配ばかりして、それが時にはうっとうしくて、よく口喧嘩をしたことなどを思い出していました。
東京から来た叔母は「姉さんは、私の最大の失敗は、娘を遠くに手放したことだと言っていた」と語ったのです。
誰も気にも留めない、何気なく言った一言に、私は胸がつまり料理が喉を通らなくなってしまい、その場を離れ、始めて思い切り泣いてしまいました。
十分親孝行もしたし、それに答えてくれていつも感謝していたからと、悲しみにくれることをしなかった強いはずの私は、今までの自己満足が、一瞬に崩れ去った思いでした。
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やはりあの時、あの一羽だけ私たちの上を舞っていた白鳥は、母ではなかったか。
名残惜しそうに、何か言い残したことがあったのか、もしそうであれば、
もう一度、私の傍に戻ってきて欲しい。

by taizann | 2008-01-15 14:16 | エッセー

私にも言わせて   

郵政民営化で国民は?
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 昨年の十月から小泉元総理の宿願だった郵政民営化がスタートした。 
民営化のメリットが強調されたのは記憶に新しい。
○ 国民に大きな利益をもたらす
○ 窓口サービスが良質で、安い料金で可能になり、国民の利便性が最大限に向上する
○ 郵政公社に対する見えない国民負担が最小化され・・・などなど
昨年、身内に不幸があり実家の岩手に帰っていた時のこと
どうしても京都に急ぎの封書を送る必要があり、住宅地の中の郵便局の前の赤いポストに投函し、ふとポストの横の収集時間を見て驚いた。午後三時の一回しか収集に来ないのである。三時を過ぎていたので翌日の収集になり、明後日にはなんとか間にあうかと思いきや、京都に届いたのは投函して四日後のことだった。東北と言っても、新幹線も止まる、市になっている街である。どこでも収集回数が減ったみたいだ
今どきの宅急便より質が悪い。
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もう一つ。
今年は喪中はがきで我が家は家族の分を合わせると、数百枚と数が多いので、料金別納にしてもらおうと、京都の中央郵便局へ持って行った。「何枚ですか?枚数をここに書いて、向こうの机でこのスタンプを押してから、この用紙で申請してください」「エッ!自分で一枚ずつ押すのですか」「ハイ、お願いします」。
私は、局の機械に入れれば、自動的に枚数を数え、スタンプが押されて出てくるシステムがあるものと勝手に思っていた。
何でも機械化のこのご時世に人間の手で一枚ずつ・・
なんとも時代遅れの作業に嫌気がさす。窓口を見ると、中央と言うだけに窓口が多い。しかし待っているお客の数も多い。
その割にはどうも窓口の流れがスムーズではない。手際よく、きびきびとした態度が感じられない。どの窓口もサービス精神が感じられない。極めて事務的だ。
アルバイトが多いとは聞いてはいたが・・
待っている人も気が長い。私は仕方がないと片付けるほどお人好しではない。

c0072993_23441528.jpgまた、先日知り合いの方に、五千円のお供えを現金封筒に入れ、お悔やみの言葉を一筆添えて送った。送料五百十円也。へえ中身の一割以上?確か、ちょっと前には二、三百円だったのに、値上げしている・
 これだけのことからも、民営化のメリットはどこに行った?と言いたくなる
そして、とっぷりと日も暮れた夕食時間帯に、
「郵便局です、小包を持ってきました」と配達の方の声がした、「ご苦労さまです」と言いながら、こんな時間まで?
これは我々国民だけが不便になった話ではないのではないかと感じたのである。
ひょっとして、この民営化は職員にも、メリットはあったのか?と素朴な疑問が・・
少なくてもここ、二、三ヶ月で頻繁に郵便局に足を運んだ、決してあら捜しをしたわけでもない。
私には、簡易保険百二十兆億円の行方がどうの、郵政米営化とか、郵政公社は社保庁の二の舞か、などと騒ぎ立てている話には興味もない。
難しい話はわかりません。ただ単純に便利で、安全で、安く、今までの様に気楽に利用できる郵便局であって欲しいだけのことなのです。
なんだか、民営化、民営化と熱狂的に進められ、また、これからもどんどん、官から民へ移行するこの政策は果たして国民にとって喜ばしいことだろうか?
安易に賛美してしまっていいのだろうか。
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by taizann | 2008-01-05 23:59 | エッセー

旬の香り   

こだわりの味・秋刀魚
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 ふと、何かしら吹く風に秋の気配を感じる頃、「クール宅急便でーす」元気の良い配達のお兄さんの声と共に、我が家にはいっぺんに秋が来る。
 いくら流通機構が発達したと言っても、私は秋刀魚は三陸の秋刀魚と決めている。手がちぎれんばかりの凍り詰めの箱に入った秋刀魚を見て「今年の秋刀魚は大きい、うーん脂が乗っていそう、さあ、今日は秋刀魚づくしにしよう」。

 まず、何匹かを刺身用ににとりかかる。
c0072993_93915.jpg新鮮なものは、三枚におろすのも、いと簡単である。包丁など使わずとも、手で骨がすうっと、はずすことができる。
ここで忘れてはいけない。小骨の多い腹の部分を腹わたも一緒に 切り取り、軽く塩を振り、食べる前にさっと焼いて、すだちでも絞って食べれば、これもまさに通の一品になる。
幼いときには、母に「カルシユウムだよ」と言って残りの骨を火鉢で焼いて食べさせられたものだ。我が家の秋刀魚は、捨てるのは、頭としっぽだけになってしまう。
三枚におろしたものの半量を尻尾から、皮をむいて刺身用に切り、盛り付ける。

残りを秋刀魚の寿司にしよう。
c0072993_9541249.jpg]軽く塩を振り酢につける。秋刀魚は鯖などと違い、身が細く、薄いのであまり酢に漬け過ぎるとカスカスになってしまう、酢飯なので酢に漬けなくても良いくらいだ。酢につけてから、皮をむくのであるが、新しいと皮はむけないことが多い、と言うより皮が溶けてしまうようだ。それに無理しなくても、皮の存在など気にならない。にぎりにしてもよし、棒寿司にしてもよし。
 残りは、明日用に塩をしておいて、焼くのもよし、醤油に漬けておいて、かば焼きにしてもよいだろう、土生姜と煮つけてもよい。
生の新しいものは何にしても美味しい。
昔はおそらく安い魚の代表だった筈で、箱で買ってぬか漬けにして、温かい白飯で食べた〔へしこ〕の、あの美味しかったこと。
さあ、これでできた。
                                 ↓(ここがまた、美味しい腹の部分)
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岩手の弟に「秋刀魚届いたよ、ありがとう、また、送って!」とメールする。


                                      


                                                                       

by taizann | 2007-10-01 10:28 | エッセー

二つの「硫黄島」と「ひとたばの手紙から」   

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クリントト・イーストウッド監督の話題の映画二部作を観た。その一部作目「父親たちの星条旗」は、激戦の硫黄島の擂鉢山に、星条旗がひるがえるその瞬間を捉えたこの写真が、米国の戦気昂揚に利用された。三人の兵士の一人、ドクは硫黄島での出来事を死ぬまで語ることがなかった。その息子のジェイムス・ブラッドリーは父の死後、父親を知るために何年もの歳月を費やし、硫黄島の真実にたどり着くのである。その著書「硫黄島の星条旗」(邦題)をもとにした
ノンフィクションである。有名な写真をめぐる無名の兵士の物語である。
星条旗をかかげた六人の兵士の中で生き残った三人の兵士は帰国後、戦費調達全米ツアーにかりだされる。硫黄島での悲惨な体験と、英雄に祭り上げられた兵士の心の断絶が描かれていく。そして語られることのなかった真実と、戦場からの「叫び声」に、三人の兵士の運命は大きく変わっていくのである。
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二部作目は、監督が、相手国の視点で描いたと言う「硫黄島からの手紙」である。
太平洋戦争最大の激戦だったと言われる、硫黄島の戦いに参加した若い一人の兵士・西郷の目を通して、名将・栗林中称率いる日本軍の硫黄島での最後の生き方、死に方を描いているものといえる。
映画は、島に降り立った栗林中尉が「非国民の言動をした」と上官が若い兵士に体罰を加える現場を目にし、戒める場面から始まる。
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米国へ留学経験を持つ栗林は、圧倒的な戦力を誇る米軍に、知略を持って抗戦する戦略に出る。すべてが極限の島に地下壕を堀り、最後の一人になっても戦い抜けと命じ「いさぎよく死ぬこと」の軍人の美学を許さなかった。そのことが、本土への攻撃を遅らせ、家族が一日でも長く生きる道と信じた兵士達は、五日で終わるとされた戦いを三十六日間もの長きに渡り、死闘を繰り広げたのであった。c0072993_20244456.jpgc0072993_20264577.gif










硫黄島は東京より約1200キロ南、東京―グアム島のほぼ中間にある。米軍がサイパン、グアムの基地から本土空襲をする際の長距離爆撃効果を上げるため、中継基地として硫黄島を必要としていた。
この島は戦前から海軍省によって要塞基地に指定され、一般島民の立ち入りは制限されていた。1944年に入り大本営は、マリアナ島の防衛強化とあわせて小笠原諸島の防衛強化を開始、栗林中尉を師団長として着任させた。1944年2月から3月にかけての攻防で日本軍20、129人、米軍28、686人の死者がでた。、米軍の死者が日本軍より上回ったのはこの戦いだけであったと言われている。終戦後アメリカ空軍基地として核兵器保管などに用いられた。1968年小笠原諸島と共に日本に返還されたが、現在海上自衛隊とアメリカ軍の基地があり、島全体が軍事基地になっている。

この二つの映画の余韻が残る数日後、私は俳人宇多喜代子著「ひとたばの手紙から」(戦火を見つめた俳人たち)という一冊の本を知って驚いた。硫黄島で戦死した日本兵の遺品であるひとたばの手紙を、アメリカの一女性から託されたことから始まる、宇多喜代子氏の少女時代の戦争体験を綴ったもので、俳人たちが戦争といかに向き合い、いかに詠んだかを検証した一冊である。
c0072993_20495785.jpgアメリカのシークリフという町に住む元ジャズシンガーのメリーアンさんが、自国の兵士の慰問公演で訪れた硫黄島でこの島の洞窟から、玉砕した日本兵の所持品であった「ひとたばの手紙」を見つけたのであった。屑のようにしか見えないその「ひとたば」が、声を発するのを聞いたそうである。きっと、日本へ届けてくれとメリーアンさんの手を掴んだのかもしれない。その後、この「ひとたば」は50年の間メリーアンさんによって大事に保管されていたが、くしくも、宇多氏がシークリフを旅行した際、彼女に託され、その三年後苦心の末、ようやく遺族のもとに届けられたのである。
私は、この本から、きっとまだ無数に眠っているかもしれない硫黄島の手紙の一部が届けられた偶然に胸を熱くした。

硫黄島はいまなお、地下には無数の不発弾や一万柱を超える日本人兵士の遺骨が残され、回収もされぬまま、島民も帰島できていない状態であると聞いている。
そして、硫黄が噴き出す島には、占領後アメリカ軍が死臭を消すために植えたネムの木が生い茂っているという。

by taizann | 2007-02-05 21:08 | エッセー

 あなたは遺言状を書いてありますか?   

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ピーポー、ピーポーと突っ走る救急車の中で、「遺言状を書いていない、遺言状を書いていなかった」と思い続けていた。
これは、同年、同月生まれの友人が、無事救急病院から生還して帰ってきてからの後日談なのですが、
「へえー、財産がたくさんあるお宅は、やはり気になるの? 大変ねえ」と言うと「まさか、うちの主人や子供は、私が死んだら何がどこにあって、何をどうすればいいのか、全然知らないから、たちまち困ると思うと、死ねなかった」「主人が慌ててしまい、気が付いたら、左右色の違う靴下を履かせてくれていたの」と笑っていた。c0072993_9304872.jpg
私は、この友人の言葉が、妙にいつも頭から離れないのです。それと言うのも、我が家も決して人事ではない有様で、私も、人にあれこれ言うより、何事も自分でやってしまう性格で、家の者には便利な存在、なくてはならない存在と自負しているほうだから、自分がいなくなった後のことなど、まったく考えたことは、一度もなかったからです。
私の連れあいは、書物もよく読むし、新聞も隅から隅まで読んで、感心するほど良く知っているし何でも良く覚えている。テレビを見ていていても、時事解説が始まり、「わかった、わかった」と思うこともしばしばで、言うなれば、うるさ型です。
しかし、夫婦そろって好きなことをしていて、お互いに干渉しない。特に私の趣味についても《自己満足》と決め付けて興味を示さず、とやかく言わないし、どこに出かけても、気にしないし、制限もしない。一応礼儀として私は、「いついつ、どこそこに行ってくる」と、言っておくが、忘れてしまっていることが多いし、「ああ、そんなこと言ってたなあ」と、こんな具合なのです。
その方が私にとってはありがたいし、むしろ思いやりのひとつなのだと良心的に解釈していたのですが、c0072993_9315839.jpg
実は最近、数人のグループでの旅行中に、友人が旅先の救急病院に入院と言うアクシデントがあったのです。このようなアクシデントは昨年も同じグループの旅行先であり、
なんとも不気味な経験が続いてしまったのです。予期しないことがこうも続くと、私に起こらないとは限らない、たちまち、家中オロオロするに決まっている。身の回りも整理しておかないと、残った者が迷惑するだろう、財産でもめるなどということは、我が家に限ってありえない。第一財産は残るほどないのは私が一番よく知っている。
だけど、貯金通帳、印鑑、カード、生命保険の証書などの類の在り処だけは知らせておかないと、しかしこれも頭に入らないだろうなあ、カードでお金を引き出したこともないお方なのだから。
 やっぱり、遺言状というより、遺書にして
わかりやすいところに置いておくべきか、
そうだ、信頼する人に預けるのがいいかもしれない。ついでに、友人への連絡先や、あとの処理事項、葬式も、墓もなしでいいけど、骨は両親のところへ分骨してほしい。いや、私は故郷の山からの散骨を希望しておこう、などとあれこれ、ここまで散々考えたあげく、
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「やーめた、バカバカしい」。
今日まで私に、おんぶに抱っこしてきたのだから、思い切り困らせてやろう、死んでからまでありがたがらせることはない、「やっぱり、大事な連れ合いだった」と思い知らしめてやろう。その方が今後の為だから、「棺おけにまで聞いてこないでよ」と、
にわかに邪気が起こり、しらけてしまったのでした。従って遺書は未完成です。
先日友人に「ところで貴女、その後遺言状は書いたの?」と聞くと「命拾いした私は大丈夫だから、主人に書いて置くようにと、うるさく言っているのよ」と笑うのでした。

写真は「阪田かずを写真集」より(阪田さんありがとうございます) 

今回はユーモアエッセーに挑戦してみました

by taizann | 2006-12-04 09:39 | エッセー

故郷への道のり   

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もうこの歳になると、先が短いからと、2.3年に1度のペースで、故郷の中学の同級会は開かれている。故郷は岩手県一関市の中里という町であるが、私はいつも、この同級会への出席を兼ねて、故郷へ帰省することにしている。京都から一関までは、東海道、東北新幹線を乗り継ぎ、約六時間の道のりである。
私の母は京都に実家があり、父の仕事の関係で岩手に住み、娘の私が岩手から京都に住み、この親子の遠い故郷への往復は、何の因果で、何度繰り返してきたのだろうかといつも考えてしまう。そして、両親も高齢の上、介護の必要な身でもあり、今回が最後になるかもしれない、きっと私は親の死に目には会えないだろうなあなどと、つい思ってしまう。
娘の結婚の条件は、何よりも近くに住んでくれる人と、勝手に決めてしまっている。

c0072993_1114981.jpgとはいっても、私はこの6時間の旅が大好きである。6時間というたっぷりの時間を有効に使うつもりで、あれこれ予定を立てて乗り込むことにしている。短い小説なら軽く何冊か読めてしまう。それに、疲れたら、ゆっくりと窓の流れる景色を楽しめばいい。
事前に、美味しそうな弁当も買って乗ることも忘れない。
たまに帰るとなると、必ず荷物が多くなり、前もって宅急便を送っても、又、大きな手荷物になってしまった。わざわざ、駅の緑の窓口で後ろに空間があって、荷物の置ける1―Eの座席を確保した。隣の座席の男性の伸びきった長い足をやっと乗り越えて席に着いた。c0072993_112465.jpg
「しまった」 小説や、読もうと思った教室のみんなのエッセーなどの印刷物を、ファイルに入れて、取り出しやすいように、スーツケースのポケットにいれておいたのだった。隣の男性は、人が通りやすいように足を引っ込めてくれるようには見えない。むしろ、(俺の脚は、この座席では狭すぎる)と言わんばかりに、憮然とした態度で目を閉じてしまっている。「もう、長いのは充分わかりましたから、その足、何とかなりませんか?」と言いたいところだったけど、「すみません」とも言えず、私の太短い足ではまたいで行くことも出来ず、(この人途中で降りないだろうか、今度からグリーン車に乗るべきよ・・)などと思いながら、心ならずも、東海道の約三時間は寝ることとなった。c0072993_116574.jpg

東京駅で、東北新幹線への乗り換え時間は10分である。一昔前はこの乗換えが大変だった。上野、大宮と3回乗り換えねばならず、時間も相当かかった。そのことを思えば本当に便利になったものだ。しかも、東北新幹線の乗り換えはホームを出ると、すぐ前が東北新幹線の改札口になっていて、10分もあれば悠々である。
それでも急ぎ足でスーツケースを引きずり「やまびこ」に飛び乗った。c0072993_117418.jpg

今度は座る前に、ファイルなどを取り出して机に置いた。窓の外は、快晴であり、日差しが眩しかった。東海道新幹線と違い、東北新幹線はこれからのどかな田園風景が広がり、私は弁当を食べながら外の風景を楽しむのである。
しかし、今回は窓を閉めて、予定の物を読むことに専念した。1時間も経ったであろうか、満腹感でうつら、うつらとしてしまい、
バサッ! ファイルを小さい机から床に撒き散らしてしまった。「すみません」と恥ずかしそうに隣の男性に謝った。すると「いいですよ」とにこやかに、その男性は、一緒に拾ってくれた。「ありがとうございます」と言うと、やさしく笑顔がかえってきた。
(そうだよね、これが普通だよね)と、一人満足したのだった.

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カーテンを開けると、窓の外は夕日が沈みかけていた。田んぼはすっかり稲穂が刈り取られ、遠くの山々は、赤や黄色に色づき紅葉が始まっているようだ。
 家に着くと年老いた父と母が「良く来たな、遠いところをご苦労さん」と嬉しそうだった。

by taizann | 2006-11-01 11:50 | エッセー

私も聞いておかねば   

(昨年訪れたイスタンブールの夜明け)
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 先日、NHKの教育テレビでETV特集の「祖父の戦場を知る」という番組を観た。
大阪のある出版社が、全国から戦争体験の証言をもとに、毎年夏に「孫たちへの証言」と言う本を出版し続け、今年で十九冊目になる。ここ数年、この証言集の投稿に変化があるという。実際に体験した人の証言が減る一方で、肉親の体験について、孫の世代からの投稿が混ざり始めているというのだ。
番組は、この「孫たちへの証言」への投稿を手がかりに、祖父の戦争体験を知り、その意味を考え、受け継いでいこうとする人々を取材したものであった。
ある青年は、「自分は畳の上では死ねない」と祖父が生前に言い続けていた言葉の意味を知りたいと、直接体験者に会い、中国で南京攻略に協力し、初年兵だった祖父が中国人を銃剣で刺し殺した事実を知っていく。残った祖母からは「優しかった主人は、戦争から帰ったら人が変わっていた」と聞かされる。青年は、「戦争は講和条約で終わることができるが、体験者の傷は癒えない。祖父の苦しみの向こうにあるアジアの人々の苦しみや国家間の傷はずっと引きずって行く」と結んでいた。
また、ある女性は大学の卒論に祖父の体験をテーマに選んだ。祖父が自ら志願し、満州に渡り、B、C級戦犯としてフイリッピンに抑留された体験をテープに録っている。しかし、祖父の志願は当時の農家の次男、三男は生活できない厳しい状況のためで、愛国心だけではない生活設計の手段だったと聞き、ほっとしたと言っていた。「天皇のために戦え、降参しろと、何を好き勝手なことをいっているのかと思っていた人は大勢いたよ」と淡々と語る祖父の言葉に妙に納得してしまった。
最後に語った、八十八歳の老人は「自分はもう死ぬから伝えなければならない。若い人は、中国人が怒るのはおかしい、ただ、戦争で人を殺したくらいにしか思っていない。日本人が中国で、本当にどれほど残虐なことをしたのか、書き続けていく。戦争責任は個人が償う問題ではない、国としてきちんと償うべきだ」と、力強く語ってくれていた。
何気なく観た番組だったが、私は感動した。肉親の体験を次の世代に伝えることのできる最後の世代としてまじめに考え、調べ続け、社会に訴えている若者の存在が嬉しかった。
c0072993_2012783.jpgそして、私はこの番組を観た翌々日、「蟻の兵隊」(監督 池谷薫)という映画を観にいった。この映画は、第二次大戦終了後も中国に残留し、中国で四年もの歳月を中国共産軍と戦い、長い抑留生活を経て帰国した現在八十歳の、奥村和一氏のドキメンタリーである。
生き残っている数少ない元残留兵は、当時戦犯の軍司令官が責任追及を恐れ、軍閥と密約を交わし、残留を画策したものであると、戦後補償を要求し訴訟を起こしているが、国は「自らの意思で残り勝手に戦争を続けた」とみなし、最高裁でも棄却されている。
「自分たちは、何故残留させられたのか?」真実を明らかにするために中国山西省へ向かう。奥村氏は“初年兵教育”の名の下に、罪のない中国人を刺殺するよう命じられた。
殺人者となった記憶が鮮明によみがえる場面の、奥村氏の苦悩にゆがむ表情がつらい。
現地へ粘り強く赴き、証拠の資料を求め、紛れもないその記録の発見は、今も体内に残る無数の砲弾の破片をかかえながらの、奥村氏の孤軍奮闘に近い闘いであり、怒りと苦しみの執念に他ならない。c0072993_20134888.jpg
私はこのテレビ番組と映画を通して、自分の“戦争反対”の意思をどう表すべきか、まじめに考えさせられた。八十七歳になる私の父も戦争に行った。しかし今まで、父はその経験を口にすることはなかった。私も余程つらい経験なのだと決め付けて、聞いてもみなかった。まず、今度帰省した時、思い切って聞いておかねばならないと思ったのである


ブロ友に宣伝です。
私たちが師と仰ぐ、大先輩がこの度ブログを開設されました。
写真たくさん、何より鋭い視点にご注目です。
「臨床検査の光と影」是非訪れてみてください。

by taizann | 2006-09-10 20:25 | エッセー

寂しくて、寂しくて   

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 最近、アナタがどうも調子が悪そうで心配していましたが、突然の入院にびっくりしてしまい、とても慌てました。
アナタのない生活なんて私には考えられなかったからです。
私の毎日は、アナタに頼りきり、アナタ中心に動いていたからです。
 まず起きると、メールの確認、自分のブログへのコメントをチェックをし、それから、おもむろに朝食の準備をするのです。みんなを送り出すと、またアナタの前に座り、今度はテレビに切り替えるのです。面白い番組があると一日中アナタと向き合ってしまっていることもあるのです。そうは言っても、主婦としてはずっとかじり付いている訳にもいかず、そんなときは、録画をまかせ、好きなときに楽しんでいました。
 はたまた、写真や住所録の保存から整理、まるで百科事典みたいに、何でも答えてくれたし、それにネットバンキングも便利でした。とにかく今の世の中は、インターネットでできないことはないと信じている私ですから、アナタをフル活用していました。それがアナタに、過重な負担をかけたのでしょうね。c0072993_1517557.jpg
申し訳ない。ハード面に弱いくせに、できることを全部、次から次とアナタの意向も聞かずソフトを入れてしまい、その中には気に入らないお方があったのではないでしょうか アナタのなかった、この二週間あまりの私の寂しさをわかってくれますか?
両手をもぎ取られたのも同然の生活でした。
 無事退院と連絡をもらい、嬉しかったこと。
見事にスリムに変身し、元気なアナタと、またこうして向き合えて喜んでいます。
 アナタのなかった間に、私もちょっと勉強しましたよ。もう少し環境を整理して、快適に、ゆったりとしてもらいましょう。また、今まで以上に仲良くお付き合いくださいね。


(みなさんお元気でしたか?夏休み中に、PCが緊急入院し、
やっと、元気に戻ってきました。
ボチボチ皆さんのところにもご挨拶に伺います。
以前同様お付き合いください。



エキサイト以外のブログで、前にお付き合いしていた方お手数ですが
ご一報をください。登録しなおします。

by taizann | 2006-08-29 15:25 | エッセー

映画「祇園祭」   

 
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 京都伏見から生まれた、作家西口克己が史実に基づき、書き下ろした小説「祇園祭」を映画化(一九六八年作、製作日本映画復興協会監督山内鉄也、脚本鈴木尚之、清水邦夫、企画伊藤大輔)したものである。
物語は、足利将軍の世継ぎ争いから端を発し、京の町は応仁の乱以降、五十年もの間荒廃し続けた。虐げられた農民が一揆を起こすのもそのころであるが、侍階級の力もすでになく、農民、町民、馬借たちも、物事の本質を見抜けず、侍に利用され、弱いもの同士が戦いつづけ無駄な尊い血を流すだけであった。戦いが終わり、侍階級への不信を強めた町民たちは、税金を払わないなど、侍階級へ抵抗を試みるが、もっと、町民の団結力を示す必要があった。その中で、染色職人の新吉(中村錦之助)は、戦乱で三十年ものあいだ途絶えていた町民の祭典「祇園祭」を再興しようと提案し、その実現のために、命をかけて奔走する。この中に川原者で笛の名手であるあやめ(岩下志麻)と、祇園囃子の制作を通して、身分を越えた愛を育んでいく。
c0072993_1155114.gifやがて、祇園祭の準備は着々と進んでいった。一方侍たちはこの祭りを邪魔しようとしている。ついに祭りの日が来た。盛大な山鉾がゆるゆると動き出した時、僧兵や侍が立ちはだかるが、馬借の熊左(三船敏郎)の一隊に退けられる。しかし、ものかげら放たれた矢が、新吉の胸にささる、新吉は胸に矢をつき立てたまま、熊左の手を借り鉾に上がり鉾を進める。侍たちは、あまりの気迫に、手出しができず道が開き、再び鉾は京の町をねり動いていくのである。





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西口克己 没二十年 追悼映画会が、伏見の由緒ある御香宮神社の参集殿で催されたもので、私は久しぶりに心から感動した。それは原作がしっかりしている為であろうということと、往年の俳優がずらりと出演している。今ではこんな豪華キャストの映画は臨めない。中村錦之助、滝花久子、佐藤オリエ、岩下志麻、永井智雄、田中邦衛、志村喬、田村高広、三船敏郎、渥美清、北大路欣也、伊藤雄之助、高倉健、美空ひばり等など。
美空ひばりはこの映画に絶対出演させて欲しいと頼んだそうだ。そのために、「待ってました」「大当たり」「頑張って」という三つのセリフが作られ、最後の山鉾巡行の場面で、群衆の中のひばりが見事に掛け声を発するのである。c0072993_1232215.jpg
 「祇園祭」は八坂神社のお祭りとして立派なお祭りであるが、そもそもは厄病よけの祭りと思っていたが、京の町衆が力を合わせて、時の権力に立ち向かい、見事に復興を果たしたと言う由来と歴史に、素直に納得できるのである。何故なら、私は京都に住み始めたとき、京の町には、このような、権力に屈しない庶民のエネルギーが政治、文化の端々に流れていると感じたのであった。
この映画の実現に至る過程にも、少なからずそのような力が感じられる。当初立命館大学の林屋辰三郎教授等が紙芝居で「祇園祭」を巡回公演していた。このことに興味を持った伊藤監督が、中村錦之助を主演に映画化する企画を東映に持ち込むが、制作費がかさみすぎると言うことで東映は映画化を断念した。そして七年後、プロデューサーの竹中労が府政百年記念事業として京都府に企画を持ち込み、京都府が全面的にバックアップを表明し、日本映画復興協会の名の下、実現に至るのである。(主催、西口克己文学碑を建てる会パンフレットより抜粋)
予算のない映画作りに蜷川京都府が文化事業として関わり、シンボルの鉾を作るために当時の一千万円をかけ、錦之助が金策に駆けずり回り、多くの俳優がボランテアで出演したというこの映画に惜しみない拍手を贈り、もっともっと広く復活上映を望みたいと思った。
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by taizann | 2006-07-25 12:09 | エッセー

映画「バルトの楽園」   

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ベートーベンの「第九交響曲」が日本で最初に演奏されたと言う坂東俘虜集収容所と、その収容所を舞台にドイツ人俘虜と、所長を中心とする地元民との、人間的なふれあいの実話をもとに描いた映画である。
一九一四年、第一次大戦で日本軍は、三万の兵を送り込み、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略し、ドイツ兵四七〇〇人が日本各地の俘虜収容所に送り込まれた。厳しい待遇が当然であった当時の収容所の中で、徳島県の坂東俘虜収容所は奇跡のような他には例を見ない収容所であった。それは、所長である松江豊寿(まつえとよひさ)が、ドイツ人俘虜に対し、ハーグ条約に則り人権を尊重する待遇を終始厳守していたからである。ドイツ人俘虜達は、言語、習慣、文化の違う地域住民や、収容所職員と敵味方を超えた人間的なふれあいを育んでいった。
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そして、休戦条約が調印されドイツ帝国は崩壊し、俘虜たちは祖国へ送還されることになり、彼らは所長や地元住民などに感謝を込め、ベートーベンの第九交響曲を演奏するのである。
戦時中に、日本にもこのような美談があったことが、信じられない思いであるが、この事実を描いた中村彰彦著「二つの山河」には、戦歴を書かなかった軍人としての松江の人となりを詳しく述べている。旧会津藩士を父に持ち、一度は大尉まで昇進するが、その後、左遷されるなど、何故か日の当たるコースを歩んではいないようである。会津人の流浪と屈辱の歴史の経験と彼に流れる血が、陸軍の堕落した実態に追随する人間ではなかったであろうし、収容所においても、俘虜への寛容な処遇と運営は、軍上層部に反抗的であった。
c0072993_2322423.jpg松江のこのヒューマニズムあふれる人間性は、会津人としての経歴が大きく関わっており、極めて重要な要素であると思うのだが、映画では、この部分がさらりとしていて、私には物足りなく感じた。
また、当時ドイツは世界でもトップクラスの文明を持つ国であり、松江は、俘虜達から地元民へ、その科学技術の知識や経験を積極的に取り入れ、現在の日本にも多く伝承されているという功績も大きい。中でも大正七年に十二日間にわたり開催した「俘虜作品展示会は、俘虜たちのドイツ文化の優秀さを世間に知らしめた。物理、化学、天文学などの講演や、美術部門、工芸部門、ハム、ソーセージなど、お菓子部門など多彩であり、人口わずか五百の村に五万一千人以上の入場総数であったというから驚きである。




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祖国に帰る日が近い大正七年六月六日、ハイゼン指揮、徳島オーケストラ第二回シンフォニーコンサートが開催され、ベートーベンの「第九交響曲」が合唱つきで第四楽章まで演奏されたのである。これが第九の本邦初演である。
合唱は男声のみであり、楽器も満足に揃わない中での演奏であったであろうが、祖国の誇るベートーベンがシラーの詩を用いて世界に伝えたかった偉大なシンフォニーは、坂東の地にこそふさわしい音楽であった。
「世界は一つ、人類はみな兄弟である」
望郷の念が募り、高らかにうたいあげる俘虜たちの思いは、松江所長の国境を越えた尊い友愛の精神への感謝の合唱でもあった。
 映画の中のこの最後の演奏は、立派に完成されすぎて、感動が伝わらないのが残念であった。カラヤンの指揮する曲が再び流れるのだからここは当時の素朴さが欲しいと思った。
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出目昌伸監督は、「戦争やテロが相次ぐ時代に、この映画を通して鳴門から世界に平和を発信したい」と語っておられた。

私は、市民による「第九合唱団」を組織し、その運営と演奏会の成功に青春を過ごした。「苦悩から歓喜に」至る思いが蘇り、この映画には、個人的期待が特別強かったかも知れない 。

by taizann | 2006-06-30 23:30 | エッセー